Friday, June 27, 2014

プロゴルファー・キム・ナリ


韓国のキム・ナリ選手(25才)は、「大王製紙エリエールレデイズオープン」でツア初優勝を飾った。彼女のゴルフは「バデーよりもパーでつなげる忍耐のゴルフ」と言っている。9才の頃ゴルフを始めた。韓国のツァーで2年、アメリカツアーで4年プレーした後、昨年から日本ツアーに参加するようになった。「試合に出る以上は、どんな状況でも最善を尽くしますが、欲張りません。バーデーをとる時はとるというスタンスです。このプレースタイルはキリスト教の信仰から来ていると思います。」

イエス・キリストが救い主と確信出来たのは、高校一年生の時。「ゴルフをしながら神様を体験するようになった。」日本ツアーに参戦しているときは日曜日が試合のため、試合のない月曜日に李牧師(中野ジョイフル教会)から聖書の学びを受けている。

キム・ナリ選手は、東北にエールを送っている。「どうず勇気を失わないで、生ける神様に希望を抱いて下さい。私も祈らさせていただきます。*シャローム!」


クリスチャン新聞より

「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現れのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」聖書・1ペテロ1:13

*シャロームは、神の満ち満ちた平安があるように、という意。

Wednesday, June 25, 2014

『さて、この世は、何について考えるのだろうか?』



「人間は、明らかに考えるようにできている。彼の尊厳の全てで、彼の全ての利点である。そして、考えるのが義務の全てである。さて、先ず自分について考えるのが順序であり、そしてその創始者(創造者)、またその目標。。。さて、この世は、何について考えるのだろうか?これについて考えいない。しかし、踊ること(ダンス)、笛を吹くこと、歌うこと、詩を書くこと、馬上試合*すること。。。、戦うこと、王は何であるか人間は何であるかを考えもしないで自分を王にすること。」ブレーズ・パスカル
「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」聖書・伝道者の書12:1
“Man is obviously made to think. It is is his whole dignity and his whole merit; and his whole duty is to think as he ought. Now, the order of thought is to begin with self, and with its Author and its end….Now, of what does the world think? Never of this, but of dancing, playing the lute, singing, making verses, running at the ring, etc., fighting, making oneself king, without thinking what it is to be a king and what to be a man.”

*馬上試合は、槍を持って輪に入れる競技。

Wednesday, June 18, 2014

「分かっちゃいるけど、やめられねえ」


今年のイースターのメッセージ「分かっちゃいるけど、やめられねえ」を聞いて下さい。豊かな命教会・ダビデ・ジャンカー・ イースターメッセージ、2014年4月20日、YouTube  (聖書の背景のない方にとって、このメッセージは、少し難しいですが、三浦綾子の「光あるうちに」を読んで、またトライして下さい。)

「分かっちゃいるけど、やめられねえ」1コリント15:1−4 

「チョイト一杯のつもりで飲んで、いつの間にやらハシゴ酒、気がつきゃ、ホームのベンチでゴロ寝、これじゃ身体に、いいわきゃないよ、分かっちゃいるけど、やめられねえ、ア ホレ スイスイ スーララッタ、スラスラ、スイスイスイ。。。」このコリントの教会は、このように歌っちゃいそうでした。問題だらけの教会でした。1章〜4章、分裂があったり。5章、罪を抱いていた人を注意するのを怠り。6章前半、他のクリスチャンを裁判にかけたり。6章後半、性的罪を抱いたり。7章、結婚の問題が多かったり。8章—10章、偶像礼拝に走ったり。11章−14章、賜物の間違った使い方で礼拝が乱したりしていたのです。

インタネットのブログでこれを見つけました。「『クリスチャンは、清く正しく美しい…!?』」いやいや罪人だから、クリスチャンやっているんです。決して飾らず、自ら弱さもさらけ出しながら、本音で。。。」「クリスチャンやっている」という表現は、どうか分からないが、「罪人」と言うこと、「決して飾らず、自ら弱さもさらけ出」せることは大事です。真実なクリスチャン皆の叫びは、使徒パウロと一緒に、常にこれです。ローマ7:24「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」

キリスト者は、罪に負けそうな時、いや、負ける時があるますが。でも、それと同時に、勝利は主イエス・キリストとその福音にあります。25節「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」聖書では、罪は「しかたがない」とは言わないのです。私たちの主<ぬし、マスター、王>は、もう罪ではなく、私たちのために死なら、復活した新しい主(ぬし)イエス・キリストです。

1コリントでも、プウロは、神様に導かれて、福音が罪の何よりもの可決であると書いています。分裂に対して、1:23「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝える。」快楽に対して、6:20「あなたがたは、(キリストの十字架によって)代価を払って買い取られた。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」自制が足りないことに対して、9:23「私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。」そして、他も含めて、今日の箇所。。。

1コリント15、このコリントの教会の道徳敵問題に対して、道徳的に乱れていた教会に、パウロは、先ずもっと聖書を読みなさい、先ずもっと頑張りなさい、先ずもっと祈りなさい、とは言いませんでした。そう言う事も大事ですが、1節にこうあります。「 兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう」先ず、福音です。罪に誘惑される時、怒りすぎる時、人の噂をする時、情欲を抱く時、私たちは、罪をその罪を神に告白し、福音、キリストとその恵みにすがるのです。そして、その恵みによって、罪と離れるのです。1節後半「これは、私があなたがたに宣べ伝えた(福音)で、あなたがたが受け入れ、また、それによって(常に)立っている福音です。」常にあるキリスト者の人生の基礎は福音です。2節、この福音を常に良く考えて信じ、常に大事にし、保っていれば、あなたは「この福音によって(罪の力から常に)救われるのです。」。。。私たちは、残念ながら、この福音を何よりも大事なものとして信じ、その尊さを思い巡らさないから、3節前半「最もたいせつな」な宝にしていないから、罪に足をすくわれてしまうのです。でも、「最もたいせつな」な宝にしていれば、罪から常に救われていくのです。。。今、福音という宝を思い巡らしましょう。

1.第一の宝、3節後半「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと。」

3節と4節「聖書の示すとおりに」とありますが、コリントの人がこの手紙を読んでいた頃、新約聖書は、まだ出来ていなかったのです。このコリントの人たちの手元には、旧約聖書しかなかったのです。すなわち、新約聖書だけではなく、旧約聖書もこの福音を立証し、聖書全体から福音を聞き取れます。

私たちの主な志や愛が間違ったところにあるから、罪に足がすくわてしまうのです。でも、どれほど十字架のイエスが私たちを愛しているか分かると、変わらざる終えないのです。3節「私たちの罪のため」とありますが、聖書を読めば読むほど自分の罪が見えて来ます。神を全てを尽くして愛していないし、自分のように人を愛していません。でも、「キリストは、(その)罪のために死なれた」のです。私たち自身その「罪のために」永遠に死ぬべき、裁かれるべき、滅びるべきです。が、キリストが代わりに「死なれ」、裁かれたのです。ここに私たちを変える神の愛があるのです。これを考えれば考えるほど、これに感動すれば感動するほど、これを感謝すれば感謝するほど、私たちが変えられるのです。

残念ながら、私たちにとって、聖書は、オーディオ(音声)に過ぎない時が多いです。神の声に鈍いのです。でも、人々が言っている事は、ビデオなのです。鮮明で、インパクトがより多いです。神の言葉よりも、人の言葉に聞き入ってしまうのです。でも、神の言葉はこう語っています。キリストに語ったように、私たちに語っています。ルカ3:22「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」。。。イエスとその十字架というビデオを仰いで下さい。

ニューヨーク市のチモシー・ケラー牧師はこう書きました。「あなたは、本当に変わりたければ、イエス・キリストがあなたの圧倒的な願望でなければなりません。。。(1)心配する時。。。キリストの愛と犠牲によって、全てのものが恵みのプレゼントである。私の功績によってではなく、キリストの寛大さによって。キリストが御自身を犠牲にするほど、私を愛して下さった。ですから、必要なものを続けて下さいます。自分よ、安心しろ。。。(2)自分の傲慢と怒りを感じる時。。。キリストの愛と犠牲によって、全てのものが恵みのプレゼントである。私は、過去受けるべきものを一回も受けていない。将来受けることも絶対ない。神が私に私が受けるべきものを与えたなら、私はとっくに死んでいるだろう。自分よ、謙遜になれ。。。(3)罪悪感を感じる時。。。キリストの愛と犠牲によって、全てのものが恵みのプレゼントである。はじめからそれを得たわけではないし、それを自分の行いの不足によって失うこともない。イエスは、過去私を愛したし、今も愛している。この罪を犯すことを知りながらも。自分よ、自信持て。。。(4)退屈や無気力さを感じる時。。。キリストの愛と犠牲によって、全てのものが恵みのプレゼントである。クリスチャンであること自体が奇跡である。驚きなさい。自分よ、不思議に思え。」

2.第二の宝、4節後半「また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと。」。。。今日は、復活祭ですね。

奇跡の中の奇跡ですが、キリストは、歴史上事実「葬られ」、3日後に復活しました。5−8を見ると、特に6節「キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。」この500人以上の人たちは、キリストの復活の生き証人でした。当時、復活の事実を尋ねることは出来たのです。。。イギリスの最高司法官と上院議長であったジョン・シングルトン・コープリーはこう書きました。「私は、証拠というものを知っているが、私が言っておく、今に至って(イエス・キリストの)復活の証拠は崩れ落ちた(否定された)ことはない。」。。。本当に復活したのです。

15:20−58の文脈を見ると、過去の事実あったキリストの復活は、私たちの将来の実際の復活の希望となるのです。その希望があるとものの見方が変わり、58節、愛された者として「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励めるのです。。。(なぜなら、将来の私たちの復活の希望によって)自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」

ある二人は、別々の小さなヘアに入れられ、なんだかのつまらない道具を作らせはじめられました。でも、報酬は、違っていたのです。1人は1年間200万円で、もう一人は、1年間2億円でした。200万円の人は、数ケ月たったら、段々嫌に成り、止めました。が、2億円の人は、ルンルンしながら、口笛ふきながら作りました。なぜでしょうか?後に素晴らしいものが待っているのです。。。キリストは、初穂として復活しました。が、終わりの日も私たちは、復活し、考えられないような祝福が待っています。58節「ですから、。。。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」

教会は、二つ大事な礼典を行います。一つは、聖餐式で、先々週行いました。パンとブドウ液を頂き、キリストとその十字架の福音を味わうのです。今日は、洗礼を行います。浸礼(浸すと礼)と言いますが、ジャン兄が4人を水に入れ、水から出します。イエスの十字架と復活を信じ、それに預かったことを意味しています。洗礼式は「はじめの一歩」で、キリストを信じた頃に行います。聖餐式は、常に、毎月行い、ある教会では、毎週行います。この礼典は、これを教えています。私たちクリスチャンの生涯全てが福音中心でなければならないことを語っているのです。福音は、キリスト教のABCだけではなく、AからZです。これによって変えられ、立つのです。

「分かっちゃいるけど、やめられねえ。」本当?でも、「グッドニュース!クリスチャンにとっての素晴らしいニュースは、私たちの冷たく、かたくなな心のための神様の治療法があるということです。その治療法は、人の心を変える福音の力にあるのです。そしてその治療法は、私たちの再生だけでなく、私たちがキリストの似姿に変えられることをも目的とします。そしてその目的は、ただ単に罪の赦しを得させるだけでなく、私たちを真実に神を礼拝し、人々を愛する者へと変えるのです。」スチブン・チルダーズ

Wednesday, June 11, 2014

君のための写真



アレクスのGOODBYE PARTY.
アレクス(右から3人目)がここで2ヶ月間、病院・学校でバヨリンを弾いた。

わしが信大で教える。
現在、主にWRITINGの7クラスを教えている。

兄のジャンが豊かに命教会でメッセージ。
最近、4人が洗礼を受けた。

Friday, June 6, 2014

バレロン スパイン代表


「 イエス様がすべてです。ちょうど私達が生きるために食べ物が必要であるのと同じように、イエス様が必要です。」フアン・カルロス・バレロン - Wikipedia

「枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」イエス・キリスト、聖書・ヨハネ15:4後半