先週の土曜日、私たちの家族が兄の息子たち(ジョンルークとピーター)を連れて木崎湖へ。(木崎湖は、白馬のすぐ南、松本から北へ1時間半)写真:家内とおしゃべり。子供達は、向こうの方で泳いでいる!?
ブレーズ・パスカルが書いた本「パンセ」は『考えごと』という意味で、その内容は、キリスト教の真実さを証明するものでした。私は、皆さんに、神、聖書、イエス・キリストや人生について共に考えてほしいです。"都合悪い"ことも考えたいです。
Sunday, August 23, 2015
Tuesday, August 18, 2015
軽井沢
「神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。」聖書・1テモテ4:4
Tuesday, August 11, 2015
野辺山。。。
安息を与える造り主を讃えます。「こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。」聖書・創世記2:1−3
Wednesday, August 5, 2015
戦争責任ー日本だけ?
長崎の平祈記念像は、天に指を指して、浦上のカトリック教会に手を広げているのです。
『罪の代償』という本は、ドイツと日本の戦争責任に対する取り組み方の違いを探っている。ドイツの戦争経験者は、ポーランド人に謝罪した先の人々のように、戦争犯罪の責任を認める傾向にある。たとえば、ベルリンのブランド市長は一九六〇年にワルシャワを訪れたとき、ワルシャワのゲットーで犠牲となった人々の記念碑の前でひざまずいた(英:fell to his knees)。彼は記している。「この行動は。。。決して計画していたものではない。ドイツの近年の歴史を思い出して重苦しい気持ちになり、何も言えなくなってしまった。そんなときに人間のすることと言えば、ひざまずくことではないか。」
対照的に、日本は、戦争に対する自分たちのどんな罪もいさぎよく認めることがなかった。昭和天皇は日本の敗戦を認める詔勅でも、「戦況必ずしも好転せず。世界の大勢またわれに利あらず」と、昔ながらの控えめな表現をした。戦後の発言もまさに計算ずくのものだった。日本政府は真珠湾攻撃の五十周年記念式典への出席を辞退したが、それは合衆国が、日本が謝罪することを条件にしたかったからであった。「この戦争は全世界に責任がある」と主張した閣僚もいた。実際、日本が自らの行為について「謝罪」という言葉を使ったのは一九九五年になってからである。
今日、ドイツの子どもはホロコーストなどのナチスの犯罪を詳しく学んでいる。日本の子どもは自分たちの上に落とされた原爆については教えられても、南京大虐殺、捕虜に対する野蛮な扱い、アメリカ人捕虜への生体実験、外国人「従軍慰安婦」についてはほとんど学んでいない。そのため、中国、韓国、フィリピンなどでは、いまだに怨恨の情がくすぶっている。
日本もドイツも世界中の国から承認されていて、侵略に対する国際的な「赦し」を得ているのだから、この対比があまり強調されてはならないだろう。だが、新しい歩みを始めたヨーロッパで、ドイツがかつてかつての犠牲者からパートナーとして完全に受け入れられてきたのに対して、日本は、注意を怠らない敵たちと今なお決着がついていない。日本の謝罪の遅れが全面的な承認を遅れさてきたのである。
この話を聞くと日本人は、いやがると思います。最近、日本の戦争責任を否定する日本人の話を聞いています。ですから、外国の国から信頼されないのです。しかし、私は、アメリカ人ですが、それ以上にクリスチャンです。私は、自分の原爆に対する態度を吟味しました。
私、ジャンカー、は、3年間、広島に住んでいました。はじめは、原爆が落とされることはやもえなかった、と信じていました。しかし、私は、広島の犠牲者に触れる事によって、原爆についての考えが変わりました。私は、オバマ大統領に手紙を書き、広島と長崎の市民に謝罪して下さい、とお願いしました。
私たち皆に適用することも大事です。聖書は、アメリカ人、日本人だけに罪があると言っていなのです。いわゆる『大きな罪』だけが罪ではないのです。傲慢も、偽善も、うわさ話も、ねたみも、むさぼりも、その他も、罪なのです。聖書にはこう書いたあります。「 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず。」ローマ3:23。続けて24節にこう書いてあります。「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる(十字架の)贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」イエス・キリストを通して、創り主と和解し、その力と恵によって、互いに和解し、真の平和が築き上げられるのです。他人に指を指すのではなく、自分を吟味し、世界の主イエス・キリストを信じ仰ぐのです。
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