Wednesday, May 23, 2018

『愛』


ロイヤルウェディングでマイケル・カリー主教によるメッセージで70回以上『愛』という言葉が繰り返されました。Mirror Online


愛の最高点は、イエス・キリストと言う人物です。カーリエ司教は、こう言いました。「イエスが死んだのは、それでなにか得することがあったからではありません。死ぬことで、名誉博士号を得たわけでもありません。なにも得しなかったんです。ほかのひとのため、この世の幸せのために、自らの命をあきらめ、犠牲にしました。私たちにとって、愛とはこのようなものなんです。」


カーリエ司教が引用した箇所にこうあります。1ヨハネ4:10、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物(犠牲)としての御子(イエス・キリスト)を遣わされました。ここに愛があるのです。」


*メッセージを英語で聞く:US Royal Wedding: Most Rev Michael Curry, presiding bishop and primate of the Episcopal Church - YouTube



Monday, May 14, 2018

『実るほど。。。』


『実るほど頭を垂れる稲穂かな』

英国のトーマス・ワトソン師は、こう書きました。「木が実で溢れていれば、その枝は、低く下がる。」 “The fuller a tree is of fruit, the lower the bough hangs.” Thomas Watson 

「私たちは、高く建てたければ、低くはじまる必要がある。」イギリス、リバープールのライル司教  “We must begin low if we would build high.” Bishop Ryle of Liverpool

「しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。『神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。』」聖書・ヤコブ4:6

Monday, May 7, 2018

十字架の絵


明治時代に、ヘボン式ローマ字で有名なジェームス・カーティス・ヘボン は、日本の横浜などで、宣教師、医者、教師として活躍しました。

ヘボンの家に、キリストの十字架につけられた絵がありました。しかし、キリシタン禁制の時代だったのです。神奈川奉行にこの絵を差し押さえようとしました。その時、奉行の方が「ヤソ(イエス)はなぜ十字架につけられているのか?」と尋ねたら、ヘボンは十字架の愛*について語りはじめました。それは「ご利益のようなものか?」「いえ、そうではありません。愛は、相手のために命を捨てることができるものです。」「そうか、愛とは慈悲に近いものだな。」「いえ、もっと深いものです。自分を傷つける者さえも抱きしめることができるものです。子供が母の手を振り切って、危険の中に自ら入ってしまうように、私たちも自分で何をしているのかわからない罪の中にいます。危険な火事の中に何も知らないで飛び込む子供のような私たちを助けるために、イエス様は十字架の上で代わりに死なれたのです。」その奉行の方は、やっと愛について理解しはじめました。

その後、大使館専属の医師に任命されました。ヘボンは身の危険が及ばないためだったのです。不思議に、十字架の愛について尋ねたその奉行の方がその提言をしてくれたのです。彼は十字架の愛について理解したのでした。

「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」聖書・1ヨハ4:8ー9


* 当時の日本人、は「愛」について全然を知らなかったのです。

Wednesday, May 2, 2018

その人に対して何を言えるであろう



「私たちは、自分が傲慢、野望、情欲、弱点、悲惨、と不正で満ちているのが理解できなければ、私たちは、正に盲目である。そして、もしも、これを知りながらも、救いを求めていなければ、その人に対して何を言えるであろう。。。?」ブレーズ・パスカル

"If we do not know ourselves to be full of pride, ambition, lust, weakness, misery, and injustice, we are indeed blind. And if, knowing this, we do not desire deliverance, what can we say of a man...?" Blaise Pascal

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。 わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」イエス・キリスト、聖書・ルカ5:31−32

自分の心の病いを悟って、はじめてその解決を見いだせるのです.

Monday, April 23, 2018

聖書にある


聖書は、最も素晴らしい贈り物である。人間にとって望ましいものはすべて聖書にある。」ブラハム・リンカ-ン 


「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。」聖書・詩篇119:103

Sunday, April 15, 2018

安らぎ


「ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです。」アウグスティヌス 

もっと読む:「真の古郷に帰る」


「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」イエス・キリスト、聖書・マタイ11:28

Monday, April 9, 2018

「真の古郷に帰る」


♪「古郷」♪「兎追いしかの山、小鮒(こぶな)釣りしかの川、夢は今もめぐりて、忘れがたき古郷。」例えば、年末年始であっても、どんなに「郷」帰っても、何かが足りないのです。思い出はありますが、寂しさが残るのです。。。なぜなら、真の古郷は、天地を造られた生ける神にあるからです。創世記1:1「はじめに神が天と地を創造された。」「ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです。」聖アウグスティヌス ルカ15:11−32を読んで下さい。ルカによる福音書15章

1.はじめ、私たち人間は、神様と交わっていました。神は、天と地を造り、人間を「ご自身のかたち」に似せて特別に創られました。創世記1:27前半神は人をご自身のかたちとして創造された。」神は、人間を愛し、エデンの園(神の園)に置きました(創世記2章)。悪は、一切なかったです。

2.しかし、私たちは、罪を犯し、神から離れました(創世記3章)。神の真実な言葉を信じ、従うよりも、サタンの言葉を信じ、従いました。エデンの園から、追い出され、神から離されました。創世記 3:24前半「こうして、神は人を追放した。私たちは「放浪者」となり、悪は、広まって行きました。心の問題が、人間関係に、自然にまで広がりました。

3.神であるイエス・キリストは、私たちを連れ戻すために来られました(ヨハネ1:1−11)私たちの間に住みました。私たちが再び帰れるように、イエスは、十字架上で、私たちの罪を負い、代わりに神から離されました。その時、キリストはこう叫びました。マタイ27:46「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」そして、三日目にイエスは、復活しました。これも、回復を意味しています。

4。神は、新しい天と地を創ります(ヨハネ黙示録21:1−8)そこで永遠に神との交わりが出来るのです。黙示録21:3後半「神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられる。」

5.私たちは、イエス・キリストを通して古郷である神に立ち帰るのです。罪によって神から離れていることを認め、イエス・キリストを信じ仰ぐのです。ヨハネ1:12「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」神の子どもの身分に回復されるのです。

本当の満足、安らぎ、安心は、天地を造られた神にあって、私たちのために死なれ、復活し、古郷を用意して下さる方主イエス・キリストにあるのです。「一人一人の人間の心に神の形をした空洞があり、イエス・キリストを通して知られる造り主神のみを通して満たすことが来ます。」ブレーズ・パスカル


真の郷生ける神に帰った者として、私たちは、家族、近所、教会、社会という郷を大事にし、祝福する必要があります。