Tuesday, June 26, 2012

「聖書を読む」



私は、ドミー・リー・ジョンズが主役の缶コーヒーBOSSのCMが大好きです。おかしくて、しかも鋭い所を見ています。が、最近、彼が出演する映画「メン・イン・ブラック3」の日本での公開があって、彼は、日本テレビの「シャベクリ007」の番組に出ました。その後、このように聞かれました。「ふたりでどこかに行くのですか?」トーミー・リーは「早く寝る。聖書を読む。」と答えました。


あなたは、世界のベストセラー聖書を読んでいますか?そこにある十字架の恵みを知っていますか?


「主のみおしえ(聖書)は完全で、たましいを生き返らせ、主のあかし(聖書)は確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒め(聖書)は正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せ(聖書)はきよくて、人の目を明るくする。主への恐れ(聖書)はきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばき(聖書)はまことであり、ことごとく正しい。それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。」聖書・詩編19:7−10

Sunday, June 24, 2012

Thanks for your help!


豊かな命教会の二階の私たちのアパートを塗るレビと家内の奈帆。Thanks for your help, Levi and Naho!

Saturday, June 23, 2012

ただ神に感謝しています。



「米国カリフォルニア州サンフランシスコのジ・オリンピッククラブで開催された第112回全米オープン選手権は、アメリカの新鋭、ウェブ・シンプソンが初メジャー制覇しました。」パーゴルフ そして、TwitterGolf Channelなどで波のようにシンプソンは感謝しました。英語ではこう言っていました。“Just thankful to God. I couldn't have done it without Him.... Thanks to everyone for the support and encouragement. Humbled to win the US Open!! Thankful to God for His grace in my life....” 訳します。「ただ神に感謝しています。神無しでは出来ませんでした。。。支援して励まして下さった全ての方に感謝しています。全米オープンを勝てて低くされ*ている!!神の恵みが私の人生にあることを感謝している。」


「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」聖書・エペソ 5:20


*英語では"humbled"で、日本語には訳しにくい。このような恵みに値しない、という意味があると思います。

Wednesday, June 20, 2012

「光に吸い寄せられるように」


去年の3月11日(3・11)の日に、ある方は暗闇にあった仙台のトラスト・タワーの「光に吸い寄せられるように」して、そこに避難し保護されました。なぜなら、そのトラスト・タワーは、仙台で唯一の『光』を灯していた場所でした。

イエス・キリストは、聖書で、キリスト者についてこう語ってます。「あなたがたは、世界の光です。。。あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」マタイ5:14、16 でも、私たちは、自分の足りなさ、弱さ、罪深さを感じます。神の栄光となる「良い行い」を示しているでしょうか?ですから、私は、全ての根源である主イエス・キリストの永遠の灯火が不可欠です。『イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」トラスト・タワーの”トラスト”(英:trust)は『信頼する』という意味です。光の源であるイエスとその十字架の恵みに信頼しながら、「良い行い」をし、「光」となるのです。キリストの恵みを体験すればする程、力強い「光」を放てるのです。そして、人々は、私たちにではなく、イエスという真の「光に吸い寄せられるように」なり、真の意味で、不安の世界の中で、安心できるようになるのです。

追加:3・11のような大変な時に、電気を保ち、避難場所を提供して下さったトラスト・タワーの皆に、心から、感謝しています。また、私たち皆に良い模範を建てて下さいました。Thank you!

Friday, June 15, 2012

「ソウル・サーファー」



昨晩、私たち家族5人が松本市のシネマライツ8「ソウル・サーファー」という映画を見に行きました。ベサ二ー・ハミルトンは、ハワイでトップのサーファーでしたが、サメに左腕を食い取られて、失望に堕ちながらも、希望と勇気を持って前進する映画です(公式サイト:映画『ソウル・サーファー』


乗り越える秘訣は、家族愛でもありましたが、それを更に超えるものがありました。「ソール・サーファー」(魂のサフィンする人)の意味は、アメリカの1960年代に「ただただ純粋に楽しいからサーフィンする」と意味もあります。しかし、映画では、ソール(魂)という言葉はもう一つの意味があり、ベサ二ーのキリスト信仰を表しています。この信仰によって、新たにサーフィンが出来るようになりました。

Youtubeで彼女は、自分の信仰についてこう語っています。「サーフィンは私にとって一番大切なものというわけじゃない。イエス・キリストこそ一番大切。イエスに力と希望をもらって日々を過ごす。サメの恐怖と困難を乗り越える力を与えてくれた。イエスこそ私にサーフィンの力や海に向かう勇気を下さった。イエスは私の前向きな力を与えてくれた。」彼女は、ビデオの後半にこう言いました。「そしてイエスはあなたのため命を捧げた。」ベサンー・ハミルトン Youtube-べサンー・ハミルトン 英語、日本語字幕

ベサンーに希望と勇気を与えた聖書の言葉は次の通りです。「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。-主の御告げ-それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」エレミヤ2911

Wednesday, June 13, 2012

コゼット


レ・ミゼラブルというフランスの小説をご存知でしょうか?その物語にコゼットという少女が登場します。彼女は赤ん坊のとき宿屋の夫婦に預けられ ます彼女が8歳のときジャン・ヴァルジャンという初老の男に出会いとても 高価な人形をプレゼントされるというシーンがあります。 

  ”コゼットは目をあげた。男が人形を持って自分の方へやって来るのを太陽が近づいてくるのを見るようにしてながめた。これがお前さんのだという異常な言葉を聞いた彼女はその男をながめ、人形をながめ、それからそろそろと後しざりをして、テーブルのしたのすみに深く隠れてしまった."

彼女はなぜ喜んで人形を受け取らなかったのでしょう。いらなかったのでしょうか? いいえそれはとても欲しがっていた、それを得ることなど想像もつかないほどに遠い、あこがれの人形です。コゼットだけでなく、宿屋の夫婦や客の大人達も信じられない思いでそれを見ていました。コゼットはなぜそれが「異常な言葉」だと思ったのでしょう。 なぜなら彼女は誰からも愛されていなかったからです。寝る間もなく働き、やせて、ぼろをまとい、怒鳴られ、うたれ、許された場所はテーブルのしたや物置に閉じ込められました。宿屋の夫婦は彼女を愛しませんでした。町の者たちも、過ぎ行く旅人達も誰も彼女のことなど気にも止めなかったのです。彼女は奴隷の様にこき使われ、周りの人々からは無視されていました。ですから、こんな彼女にそのような高価な人形を与えてくれる人がいるなんて信じられなかったのです。「これがお前さんのだ」という言葉は、彼女にとっ てはそれは異常な言葉でした。なぜならその生活には希望など何一つなかっ たのですから。幼くして希望より先に絶望を知ることもあるのです。

聖書のエッセンスの福音もそうかもしれません。自分のために死んでくださる人がいるなんて! 普通でない、異常なことに聞こえ、ただただ当惑し、これはきっと何かの間違いだ、自分に言われたことではない、とコゼットがテーブルのすみに、自分の場所に隠れたように、あなたもまたどうすればよいか分からないかもしれません。希望より絶望を信じることが、ある時には容易なものです。しかし福音には絶望という暗闇を照らす力があります。

コゼットは当惑しながらも人形を手にします。同時に彼女は希望をも与えられたのでした。自分という存在が、そのままで価値ある者であると認め、 受け入れてくれる人に出会ったのです 。あなたは生きていてもいいのだ、そのままで価値あるものだと。彼女はジャン・ヴァルジャンに何かしたわけでもありません。それどころか二人は初めて出会ったのです。血がつながって いるわけでもありません。また彼女はやせて、みすぼらしい姿をしていまし た。生来の輝きはその環境のゆえに損なわれていました。人形はただただ彼の愛と憐れみによる一方的なプレゼントでした。コゼットが人形を得るためにしたのはそれを受け取ることだけです。コゼットにとって初め彼は他人でした。しかしジャン・ヴァルジャンは彼女のことを出会うまえから知っていました。たまたま通りがかったらかわい そうな女の子がいたというわけではないのです。彼女のために宿屋の夫婦が求める不当な金銭の要求(というのも宿屋の夫婦はコゼットの母親にコゼッ トが病気になったとか着るものがないとか嘘をつき、彼女にお金を無心して いました)にたびたび従い、いのちをかけ、海を泳ぎ、彼女を引き取るために町にやってくるのです。彼は多大な犠牲を払いました。

後にコゼットはジャン・ヴァルジャンと宿屋を後にします。悪意と無関心の悲惨な状況から脱したのです。そうして彼との生活の中、自分らしさを見いだしていきます。本当の意味で彼女は自分を生き始めたのです。彼女らしく、自分らしく。彼女はジャン・ヴァルジャンのことをお父さんと呼ぶようになります。二人は親子になったのです。

同じように神様は私たちが神を知らない時でも私たちを救わんと遥か昔から救いの計画をなし、進め、(十字架の)犠牲を払いました。そしてご自身の身元に引き寄せられました。聖書・エペソ 1:5、「神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストに よってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」

救いは既に完成されているのです。あなたが何か苦労して付け足したりする必要はありません。タバコをやめなきゃいけない?ギャンブルをやめない と、もう少しましな自分になってから?いいえ、あなたがあなた以外の何ものかになる必要はないのです。

レ・ミゼラブルとはフランス語で貧しい人々、 哀れな人々を意味します。あなたは自分を救うために何もできない貧しいものであることを知りただ救いの恵み受け取るだけでいいのです。神様は望むものには喜んでそれを分け与えてくださいます。あなたが手を開かなければ、それを渡すことなどできません。ただ忍耐づよく神様はその時を待ち、また働き促しておられます。そうして神の子とされたなら、天の父の確実な保護と守りがあるのです。コゼットのようにお父さんのそばで本来の自分をありのままに生きることができるのです。

城靖博

映画:Amazon.co.jp: レ・ミゼラブル [DVD]: 俳優:リーアム・ニーソン、著者:ビクトル・ユーゴー

Friday, June 8, 2012

「日本の山岳の父」


ウォルター・ウェストンが1888年に来日してから1世紀を経た今も、上高地にある彼の肖像が物語っているように、日本人に忘られていません。宣教師としてよりも、むしろ、日本の山々の美しさを愛して後世に伝えた「日本の山岳の父」としての記憶にとどめられています。彼は登山やトレッキングを普及させ、多くの雄岳に名をつけました。日本列島の背骨と呼ぶにふさわしい雄大な山脈を、「日本アルプス」として世界に伝えたのもまた彼だったのです。彼は、1888年から1915年の間に、15年間、横浜の聖アンデレ教会の司祭(牧師)を努め、後の1937年に、昭和天皇から瑞宝章(勲章)を頂きました。


ウェストンは、「クリスチャンとしての自然観」を日本人に伝えました。山々をおそれたり、あがめたりするのではなく、神の創造のわざであるからこそ大切にし、保護しなければならないということを。そして愛し、喜ぶべきであることを。。。。

「天は神の栄光を騙り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」聖書・詩編19:1

Tuesday, June 5, 2012

知恵ある創造者。。。


「知恵ある創造者、人格的な神の存在はわたしにとっては、ほとんど科学によって証明されることである。」トーマス・エジソン


エジソンは、アメリカの偉大な発明家であり、神が自然の中に困難を理解するための材料を用意されているという信念に立って、さまざまな失敗にも決してくじけなかった。


「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」聖書・詩篇 19:1 

Sunday, June 3, 2012

他の教会との絆



甲信地域のJECAの教会との絆を深める集い

 松本聖書福音教会の高橋牧師が聖書から「種まきの例え」を語る。

甲府の松村牧師が祈りの時を指導する。[

「もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」聖書・ヨハネ 13:35

Friday, June 1, 2012

「生命の設計者が存在するか」


『自然科学というのは、私たちが住んでいる世界の時間、空間に関する実態を、様々な測定方法を使って研究するに過ぎません。自然科学は、「何が」創造されたかということだけを考慮する対象となり、その「起源」については対象外なのです。「生命の設計者が存在するか」という質問に対する回答は、人間の能力を超えたことであり、「創造主」ご自身によってのみ得られます。神の言葉である聖書の第一章に、その答えが記されいます。「初めに、神が天と地を創造した」聖書・創世記1:1』
ヴェルナー・ギット教授(Prof. Dr. Werner Gitt)

すべて、疲れた人


「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」イエス・キリスト、聖書・マタイ11:28−30

今日はマタイの福音書の11章28節から30節までの箇所から、みことばをお分かちしたいと思います。これは聖書の中でも最も有名な聖句の一つで、勿論皆さんもよくご存知なところです。特に28節の「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」は、教会の玄関や信徒の家の壁などによく掲示されています。

群馬県みどり市に星野富弘さんの富弘美術館がありますが、その玄関横の壁にもこの聖句が大きく書かれています。星野さんは群馬大学を卒業して、24歳の時に高崎市の中学校の体育の先生になりましたが、授業中、宙返りに失敗して体の自由を失いました。9年間入院していたのですが、クリスチャンの友人が置いていった聖書を読み、――勿論自分では読めませんから母親に読んで貰ったのですが、この聖句に触れた時に本当に驚きました。それは、星野さんが子供時代畑に肥料を運ぶ手伝いをさせられていた時、肥料と言っても当時の肥料は汲み取りの糞尿ですから、桶に入ったそれを担いで少し上る訳ですが、上りきって一息ついた所に白い十字架があって、そこに書かかれていたのが「すべて疲れたる者、我に来たれ」という、マタイのこの聖句でした。

星野さんが口に筆を咥えて絵や文を描き始めたのは入院して2年目からですが、4年目に病室で洗礼を受けました。それから5年間、病室で描き続け、退院の年には前橋で作品展を開くまでに祝福されました。そして、その2年後には最初の画集が出版され、同じ年に結婚もされました。画集は誰かにあげたりして、今我が家には2番目の「風の旅」しかありませんが、改めてそれを読みますと、次のような文章がありました。「私は少年の頃、貧しい田舎で、父母のように土にまみれ、狭い畑をかきまわしながら送る山の生活が、堪えられなかったのです。お金や地位などを、いつか、きっと・・・」、そして今、自分では何も出来ない体になった時、その「いつか」は、「出世や地位、自分の力だけで生きていると錯覚していた小さな私を失わせ、大きな愛を与えられたことにより、全く違うかたちで実現しました。」

彼は群馬県東町という、今は合併してみどり市ですが、赤城山の麓の山村出身ですから、その当時大学を卒業して都会の学校の先生になったということは、さぞ親も親戚も近所も鼻が高く、本人も、自分を中心に周囲が動き、否、世界が動いているような錯覚で、意気揚々だったと思うんですね。それが寝たきりの体になり、見られるのは病室の天井だけ、そんな絶望の中で、子供時代に何のことか意味も分からない侭何度も見ていた、このマタイの聖句に触れました。世界の中心は自分ではない、神がおられるということをはっきりと自覚したのだと思います。そしてその聖句を語ったイエス・キリストを信じたのですね。星野さんがイエス様を信じたのは、その方が楽になるとか、キリスト教を勉強すれば辛い人生を克服出来る、乗り越えられるとか、ましてや信じれば体が回復するかも知れないなどというものではありません。

貧しい田舎で肥桶を担いでいる彼に、「すべて疲れたる者、我に来たれ」と語りかけ、体の自由を失いましたが、他人に絵や詩で奉仕出来る恵みを与えられた、そのように、生まれてからずっと自分を見守り続けて下さっていた神、イエス様が、これからもずっと共に歩んで下さることを確信したのだと思います。そして、寝たきりの不自由な体の、そのまま、ありのままで、「我に来たれ」と招いて下さったイエス様に従うことが出来ました。星野富弘さんの信仰のスタートはこのマタイの福音書11章28節だったんですね。。。。

星野富弘さんが、田舎から大学出の有能な教師になったので価値があるのではなく、口で素晴らしい絵を描けるようになったので価値があるのでもなく、神が私達一人ひとりに目を留めて愛し、神から離れて滅びの死に向かっていたのを、イエス・キリストが十字架の死によって赦して下さったこと、又それは神様からの一方的な恵みであることを、彼自身が絶望的な入院生活で悶えながら悟ったに違いありません。

上は、豊かな命教会でメッセージされた一部。