高橋幸子の「証し」3月15日
私の子供の頃、狭い家に家族六人が重なるように寝なくてはならない暮らしだったにも関わらず、結構大きな仏壇の棚が据えられていました。お盆やさまざまな行事も丁寧に行われました。 そんな日本の家庭でしたが、私が小学生の頃、三浦綾子さんの「氷点」がベストセラーになったようで、母と姉が一生懸命読み始めました。私も読書が好きでしたので読みたいと思いましたが、子供には大変小さな字で、最初のトライはあきらめました。母や姉に「どんな話か」と聞くと「キリスト教の話だよ」と教えてくれました。不思議なことですが、私にはキリスト教とか聖書というものにあこがれがありました。それは少女漫画の中の清廉さや純粋さへの憧れだったかもしれませんが、聖書を抱えて日曜日に教会へ行きたかったのです。その後中学高校と成長した私は、読めるようになった氷点や塩狩峠、また外国文学に傾倒する中、キリスト教を知りたいという願いをさらに強くしていきました。
ほとんど勉強もしなかったので当然ですが、有名どころばかり受けた大学受験はことごとく失敗しました。ただ一つ憐みをかけてくれたのが、東京女子大学の短大でした。カンファレンスにおいて、正式にはTokyo Women’s Christian University と言うのだということや、カナダやアメリカの教会の献金によってキリスト教の正しい理解と布教、そしてアジアの女性教育のために設立された学校であると知るのです。学校の図書館には「おおよそ真なること」というピリピ4章の御言葉がラテン語で書かれていました。何故人間は生きて、そして思い通りにならない人生に悩んで苦しんでいくのか?中学高校とうまく友人関係を深められなかった私は、人生に求められている真実を知りたいと思い、ここでそれを知ることができると喜びました。実際、はじめて手にした聖書や讃美歌、クリスチャンの先生や職員の方々が与えてくれた勉学の環境は、真珠のように輝いて大切な場所となりました。しかし二年間という短い時間では、キリスト教のさわりにはふれましたが、結局教会に行くことはできませんでした。卒業式では「これでキリスト教とは一生関わることもなくなるだろう」と寂しく悲しい気持ちになりました。
ところが本当に不思議なことです。新入社員として配属された支店に、思いもかけずにクリスチャンがいたのです。それも私の中の「クリスチャンとはこういう人」というイメージとはかけ離れた人が。今まで男性のクリスチャンで知っているのは大学の先生たちだけで、皆・・細っそりとしていて、静かに話し、ほほえみを絶やさず、いつもうなづいている・・みたいな方たちでした。でも会社のその人は賑やかな支店の中でも、特に声が大きい騒がしい人で、いつも冗談をいって笑いをとりたがる目立ちたがり屋でした。それがある日「自分はクリスチャンで、日曜日は教会に礼拝に行っているんだ」というのです。
晴天の霹靂とはこの事でしょう!なんて言葉にしていいのかわかりませんでしたが、思ったことは「クリスチャンって誰でもなれるんだ」ということと、なぜか「これで私も教会へ行ける」ということでした。
実際連れて行ってもらったあこがれの教会。夢見たステンドグラスの教会ではなく、物置小屋のような教会でしたが、教会とは建物ではなく中に集う兄弟姉妹と、そこで捧げられている礼拝が大切なのだとだんだんわかってきました。二年ほどの求道生活の後、イエス様の十字架の意味と永遠の命、大宣教命令と献金や奉仕のことを学んだ私は、
「あなたがたが わたしを選んだのではありません。わたしが、あなた方を選んだのです。そして任命しました。」ヨハネ15:16、との御ことばによって信仰の決意をし、バプテスマをうけました。
と本来ならその信じたいきさつを詳しくお話しするところですが、今回はその先の話を聞いていただきたいと思います。
22歳のときに洗礼を受け、23歳で婚約式、24歳で結婚式を挙げ、私は主人の家に入りました。小さな家に主人と私、主人の母と祖母の四人で住み始めました。
小さなころ父親を亡くした主人は、「母親とおばあちゃんを残して家を出られない、結婚するなら同居」とずっと言っていました。私はあまり悩みもせず、同居することに同意しました。というのも、私は家族以外の年配の人からの受けは悪くはなく、褒められたり、特別にかわいがってもらうことが結構ありました。自分が頑張ればかならず人間関係をうまくやっていけると思っていたのです。というより、「私ならできる」「私だからできる」と思っていたのです。
しかし実際は、そうはうまくいきませんでした。
修学旅行の添乗の仕事に就いていた主人は、春や秋のシーズンはほとんどが出張の毎日でした。私自身も月曜日から土曜日まで働いて、日曜日には朝九時からの教会学校の奉仕、食事当番に掃除当番も担う生活。洗濯機も一台しか置くところがなく、仕事から帰ってくるとやはり仕事を持っている主人の母が洗濯機を使っている。また夜7時過ぎに帰宅すると、「台所は幸ちゃんに渡したから、悪いと思って」といって、母やおばあちゃんがご飯を待っている。そこから食事を作り片づけをする。たまにお兄さんは食事に加わるけれど夫はいない。
頑張ればうまくやっていける、みんなから褒められる・・・私の思惑は、私の心がすさんでいくのと比例して崩れて行きました。母やおばあちゃんや主人の兄が私に特別に意地悪をしたのではないのです。でも私は追い詰められ、一方的に周りの人を恨みだしました。一緒にいて助けてくれない主人が悪い。私が仕事で大変なことを分かってくれない母やおばあちゃんが悪い。そのうちには、同居を強いた主人が悪い。さらには、姑と同居するというのに反対しなかった実家の親も悪い・・・、私がこんなに苦しんでいるのに何も気がつかない教会の先生も兄弟姉妹も悪い・・・・
周りのすべての人が私に悪を働いている人たちでした。でも、悪い人のリストに私は入っていないのです。 こんなに働いて、日曜日は教会へ行って奉仕もしている私が悪いわけはない。教会の中でも、まったく動かない人がいるじゃないか。それに比べたら私はあれもして・・これもして・・。仕事場にも家庭にも教会にも、私の喜びはありませんでした。
そんな私に転機が訪れたときの話で終わりたいと思います。
子供が生まれたので仕事を辞めて専業主婦になり、赤ちゃんと私とおばあちゃんの静かな日中を過ごすことができるようになりました。その頃の私は、とにかく家族間の問題を解決したくてあちらこちらの教会で開かれる特別集会に子連れで通っていました。求めたのは〈How to〉方法でしたが、深く御言葉を聞いたり、証しをきくという恵みを受け始めました。
そんな特別集会で購入したカセットテープがありました。聖歌をクラッシックの歌手がうたっているものでした。心が落ち込みそうになるとテープをかけるようになりました。
そんなある日でした。今まで何回も聞いたことのある聖歌536番「ガリラヤ湖の岸にて」の歌でしたが、二番の歌詞が心に刺さってきました。
主イエスは傷のある手 開きて語りぬ
愛するなれがゆえに 負いたる傷なり
重荷を解き おろして やすらえ静かに
えっ、今なんて歌ったの? 愛するなれ? 愛するなれって私のこと?イエス様は私を愛しているの?そして私のために十字架の傷を負ったっていうの?
何度も何度もきいた十字架の話でしたが、それはまさに世・・つまり世界の人大勢が対象だと思っていました。私自身も入っているかも知れないけれど、よくわからないし、イエス様も特別私だけのためにそれをしたわけじゃない。そう思っていたのに、突然私は目の前に、イエス様の釘によって空いた両の掌(てのひら)を見せられたのでした。
「愛しているあなたのために わたしが受けた傷だよ。あなたを愛しているんだよ。」
十字架の贖いは私のためであった。
そのことに気がついた私は、それまでとは違う口調でイエス様に語りかけ始めました。
そしてそれからしばらくたった時です。
食事の用意をしていた時、突然体の奥のほうから突き上げるものがあって、気が付いたら私は台所の床にしゃがみ込み、手を床につき頭を垂れてうめきはじめていました。
「どうしてもどうしてもうまくいかない家族。私は母やおばあちゃんに良い証し人にならなくてはいけないのに。キリストを伝えなくてはならないのに。どうしてもできない。私の中には良いものは全くない。主よ 赦してください。今まで私は良い人、力も知恵もある。だから自分でできる。この家でもうまくやっていけると思っていました。でも今あなたに申し上げます。私は傲慢でした。私には何の知恵も力もありません。良いことは何一つできません。今あなたに白旗を掲げます。あなたに降参します。どうか私の中に住み、私の代わりに生きてください。」と祈っていたのです。
その経験は私のターニングポイントになりました。
イエス様は私を個人的に愛し、私のために十字架の贖いを遂げてくださった。
イエス様は決して遠くにおられない、私の中にいて私を愛し見守ってくださる方。
そのことをはっきりと知った記念の日になりました。
あの日から、イエス様は私の本当の羊飼いになり、私はおバカだけど愛されている羊になりました。寂しい時も苦しい時も決して離れず、なにより 相変わらずうぬぼれの強い高慢な私を、打ちのめすのではなく、その杖と鞭によって優しく教えてくださる方です。主への信頼はますます強くなり、信頼すればするほど、ますます主は近くにいてくださると確信できるようになりました。
一つの学校しか受からなかったこと、希望とは違う勤務地へ配属されたこと、すべては主に通じる道へと変えられました。主のご計画でした。そして私が自分の罪の姿をはっきり知るために、主人の母やおばあちゃんを私のそばに置かれました。私にとっては益になりましたが、主人をはじめ家族の者は私の不機嫌に付き合わされて大迷惑だったことでしょう。本当に申し訳なく思っています。そこまで犠牲を払っても、主は一人のクリスチャンを育んで成長させてくださる方です。救いを受けた私たちは特別な愛を受けていると自覚し、さらにつつしみ深く生きたいと思っています。
一月の証しで主人が述べていたように、彼が恐る恐る開けた教会のドアは、私たち家族の祝福の道へと続いていました。主のいつくしみと憐みとが永遠に私を追ってくるでしょう。私はいつまでも主の宮に住まいましょう。天の御国で新しい名前をいただくまで、私は親がつけてくれた名前の通り「幸いな子」であることでしょう。このような人生を与えてくださった主に心から感謝し、主の御名をほめたたえます。
「苦しみにあったことは、私にとって幸いでした。
私は それで あなたのおきてを学びました。」
聖書・詩編119:71