Thursday, January 28, 2016

「エグザイル」


聖書・ルカ15:11−24
またイエス・キリストはこう話された。
「ある人に息子がふたりあった。弟が父に、『お父さん。に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
   しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
   ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。』

日本のダンス・ボーカルグループ「エグザイル」の名前は、不思議です。「国外放浪、追放の身となる」という意味です。なぜ選んだのでしょうか?分かりません。

上の放蕩息子は、放蕩しただけではなく、放浪の旅に出ました。聖書の大事なテーマの一つは、流浪と帰郷です。日本人は、特に、古里を大事にします。特別な思い出があるのです。でも、期待して行くと、多くの場合、がっかりします。テモシー・ケラー牧師はこう書いています。「一口に『ホーム』(古里)といっても、それは、私たちにとって影響力の強い、けれども同時に、何ともつかみどころのない概念だと言えます。」お正月で、期待して古里に帰って、がっかりした事は無いでしょうか?でも、CSルイスは、私たちは、本当は『霊的にホームシックだ』と言いました。常に放浪の旅をし、心の里につけないのです。

創世記では、私たちは、神の園で生きるように造られた、と書いてあります。神の愛と安心から離れる必要は、無かったのです。

しかし、神の権威の下で、私たち人間は、不満でした。そして、エデンという古里を手放したその頃から私たちは、霊的放浪者となったのです。病い、老いと死を体験するようになりました。仕事場でも、常にフラストレーションを感じます。家庭ででも、壁を感じます。アダムとエバの頃から、人間は、放浪者となったのです。なぜでしょうか?罪があるからです。また、私たちの高慢で、この世は、この自然の世界も、人間によって、破壊されています。

私達は、神を無視する、自己中心的な生き方に目覚める必要があるのです。真の古里である生ける神に立ち返る必要があるのです。さらに、神の引き寄せる愛を体験する必要があるのです。

主イエスは、普通の家で生まれませんでした。馬小屋でした。大人になった時も「人の子(自分)には枕する所もありません」と言いました。主は、私たちが経験するべき放浪を、代わりとなって体験したのです。聖書・マタイ27:46「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」十字架上で、究極的な『エグザイル』放浪を体験したのです。それは、人類を、帰るべき家に連れ戻すために、迎え入れに、来て、十字架上で死なれたのです。

放蕩息子は、喜びの涙で迎え入れられ、壮大なパーティーがされました。私たちも、神に立ち返ると、神にこの上も無い喜びで迎え入れられるのです。また、終わりの日に、神の家で「子羊の婚宴」をお祝いします。死も、涙も、病いもないのです。神は、私たちを抱きしめ、私たちは、笑い、歌い、踊るのです。

参考:テモシー・ケラー牧師の「放蕩」する神―キリスト教信仰の回復をめざしてAmazon.co.jp

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