Friday, January 30, 2015

「エクソダス:神と王」


昨日家内の奈帆と二人で映画エクソダス:神と王を見に行きました。映画ノア 約束の舟のと同様、C.G.(コンプーター・グラフィックス)は、良かったです。また、面白い所もありました。

でも、残念ながら、両方とも、課題がありました。かたよっていました。両方とも、聖書の神をただ裁かれる神として表し、神の愛を表していませんでした。いや、人間の愛の方を誉めていたような気がしました。これは「ヒューマニズム」(humanism)といいますね。人間中心の考え方です。やはり聖書を理解していないと、神とその愛を経験していないと、当たり前の結論ですね。でも、気になるのは、監督達は、意図的にユダヤ人やクリスチャンとその神を侮辱しているように感じるのです。でも、このような軽蔑がアメリカで流行っているようです。

聖書は、確かに神様が正しく裁かれる『正義の神』として教えています。でも、また、愛に満ち満ちれいる神として教えています。出アジプト記(英語では映画の題名と同じ"EXODUS")34:6「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富みます。」「ノア」も、「エクソダス」も、愛を源とする神の『救い』を描いています。「ノア」では、神は、ノアとその家族を罪深い世、とその裁きの洪水から救い出しました。「エクソダス」では、神は、民イスラエルをエジプトの奴隷状態から救い出しました。神は、確かに都合の良い神ではないです。聖く裁くのです。でも、裁いた時に、同時に救ったのです。

聖書を全体的に読むと、裁きと救い両方を十字架という歴史の十字路(CROSSROADS)で表しました。神が人となり、十字架で私たちの罪を負い裁かれました。身代わりです。そして、それによって、私たちを救って下さいました。都合良いような神ではないですが、とても良い神です。。。ぜひ、存在する神とその聖い愛を信じ受け入れて下さい。

「映画を勧めることが出来ますか?」と聞かれたら「レンタルで良いでしょう」と答えるでしょう。また、映画を見ても、聖書と比較して、よく考えて下さい。神の聖い愛を理解し、神を崇める事が出来るように願っています。

Saturday, January 24, 2015

安曇野ファミリーチャペルで。。。


先週、我が輩がメッセージ。

聖書・ルカ伝のポイントの聖句は、ルカ19:10「人の子(イエス・キリスト)は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

Wednesday, January 21, 2015

「私はクリスチャンになりたい。」


あなたは今「私はクリスチャンになりたい」と思っている可能性があります。私は、聖書から、簡単にガイドを務めたいです。

聖書・創世記1:1「はじめに神は、天と地を創造した」とあります。創世記1章と2章、人間は、この神様と共に仲良く歩み交わっていたと書いてあります。神は、人間を愛し、人間は、神を愛し、隣人を愛していました。

でも、人間は、神や人を愛するよりも、自分のを愛し、物を愛するようになりました。その結果、憎しみ、争い、貧困、公害、恐れ、自己中心などが広がりました。これが人間の悲しい歴史です。ニュースを読んで下さい。自分を正直に見て下さい。

でも、神は、自分を無視する人間を無視しませんでした。神は、人となりました。それがイエス・キリストです。キリストは、人を癒し、生き返らせました。キリストは「隣人を愛すように」と素晴しい言葉を残しました。

でも、不思議にこの方は、十字架にかけられました。しかし、それは、神の摂理でありました。聖書の2コリント5:21にこうあります。「神は、罪を知らない方(イエス)を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となる(神と仲直りする)ためです。」聖い神は、罪を大目に見る事は、出来ません。罪が裁かれなければなりません。ですから、イエスは、十字架上で、私たちが死ぬべき死を代わりとなって死んで下さいったのです。でも、また、予言された通りに、三日目に死者の中から復活しました。今は、全て治めています。また、終わりの日に、全てのものを御自身へと回復します。人間は、新たに神様と共に仲良く歩み交わることが出来るのです。これこそ「福音」(グッドニュース)です。

でも、人間の返事が必要です。自分の神を無視して来た自己中心の罪を認め悲しむ必要があります。そして、自分の行いに頼らず、主イエス・キリストが「自分の為に死なれた」と信じ、主にすがる必要があります。今、そこで、このように祈れます。「神様、この罪人の私をあわれんで下さい。」(聖書・ルカ18:13)このように、心から祈るとクリスチャン〜キリスト者〜となり、神の子どもとされます。

信じたあなたは、主イエス・キリストの後に従いたいのはもちろんのことです。ですから、聖書を基盤とする教会、イエス・キリストを中心とする教会を探して下さい。恵みを体験しはじめているあなたは、今から、聖書(神の言葉)を読み、それに応答し、自由に祈って下さい。また、愛されているあなたは、神を愛し、隣人を愛するように心がけて下さい。

聖書には、このような約束があるのです。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」聖書・エペソ2:8−9

Thursday, January 15, 2015

「そのとき、わたしの心は不思議に燃えたって来た。。。」



イギリスのアルダーズ・ゲートとという所で小さな集会があり、ジョン・ウェスレーも出かけて行った。。。重い心のまますこしおくれて会場につくと、「われ深き淵より汝をよべり」というテーマのうちに、ひとりの人がルターの「ローマ人への手紙」を読んでいた。。。時計がちょうど8:45をさしていたといっている。。。彼はただ日記に短くこう記しただけであった。。。「そのとき、わたしの心は不思議に燃えたって来た(英語の意味は、あやしく燃える火という表現に近い)。わたしは自分が救われるためにキリストをーただキリストのみを信じた。キリストがわたしの罪を取り去り、罪と死の中から救い出してくださったという確信をそのときあたえられた。」後に彼はこう証しした。「ただーただキリストのもとに行こうではありませんか。栄えの主イエスの十字架を仰げば、世の富も、ほまれもちりあくたのようなものです。」

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる(十字架の)贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」ローマ3:23−24

Thursday, January 8, 2015

黙って、ただひたすら愛のわざに励んでいた


ハリー・マイアース博士はこう言った。「町はずれのさびしいところに小屋があって、そこにはひとりのらい病患者(ハンセン病)が住んでいました。顔や手足はくずれ、ふた目と見られない、ひどい姿をしていました。森さんは毎日この小屋をたずね、食物をもって行き、着物を着せ、いろいろ身のまわりのことを、親切にせわをしてあげていたのです。」。。。賀川豊彦(写)は深く心をうたれた。あの人は、一言もそんなことはいわなかった。黙って、ただひたすら愛のわざに励んでいたのである。「森さんは、キリストの愛をそのまま行っています。」。。。加川は、隣人を愛せよという聖書のことばを身をもって実践しはじめた。

「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」聖書・レビ記19:18

Sunday, January 4, 2015

神の小羊


「ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊。』」聖書・ヨハネ1:29

世の罪を除き給う天主の子羊、われらをあわれみ給え。
世の罪を除き給う天主の子羊、われらをあわれみ給え。
世の罪を除き給う天主の子羊、われらに平安を与え給え。

(聖餐式に使う伝統的古文)

ラテン語で聞く。Agnus Dei ♱ 神の子羊 - YouTube とても美しいです。

参考:神の子羊 - Wikipedia