聖書・ルカ22:1−6「さて、過越の祭りといわれる、種なしパンの祝いが近づいていた。祭司長、律法学者たちは、イエスを殺すための良い方法を捜していた。というのは、彼らは民衆を恐れていたからである。さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンが入った。ユダは出かけて行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエスを彼らに引き渡そうかと相談した。 彼らは喜んで、ユダに金をやる約束をした。ユダは承知した。そして群衆のいないときにイエスを彼らに引き渡そうと機会をねらっていた。」
イエス・キリストを十字架に付けた『黒幕』は誰だったのでしょうか?。。。『黒幕』という言葉の由来は、歌舞伎から来ています。黒い幕を張って観客から見えない裏側で、いろいろ操ったり、舞台を動かしたりしていたことから来るそうです。そこから人間社会で、隠れて裏でこそこそと人を操り動いている人が黒幕と呼ばれるようになりました。例えば、漫画やアニメでは長い間味方や脇役だったと思わせておいて「実は黒幕でした」ということも最近は結構あるようです。黒幕は、影の実力者や支配者に当る人で、表舞台に出ないで、裏から物事を思いのまま操ろうとしたりする人ですね。
「本能寺の変」と言われていますが、本能寺という寺で織田信長は、家来の明智光秀に殺害されました。ある説では、黒幕がいなくて明智光秀自身が全て企んだと言われています。信長は、何回も明智を侮辱し、屈辱を与えたようです。豊臣秀吉が黒幕と言う説もあります。彼は、「本能寺の変」のすぐ後、天下という大きな利益を得たのです。。。近くにいた信長の正室濃姫ではなかったか、という説もあります。彼女の家は、信長に殺されたから、彼女は、信長を恨んでいたのではなか、と思われています。黒幕がいたでしょうか?なら、誰だったのでしょうか?。。。キリストの死の黒幕は、誰だったのでしょうか?誰がキリストを十字架にかけたのでしょうか?。。。聖書では、結構明らかです。
1.ルカ23:22−24、ローマ人が黒幕。
ある面で、黒幕でもないです。ローマが結構明らさまにキリストを十字架につけました。何回もピラトは、キリストを解放しようとしました。が、ルカ23:22−24『しかしピラトは三度目に彼らにこう言った。「あの人がどんな悪いことをしたというのか?」ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声が勝った。ピラトは、彼らの要求どおりにすることを宣告した。。。使徒信条にこうあります。「ポンテイオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に。」ローマ帝国に仕えた歴史家ヨセフスが「古代史」でこう書きました。「ピラトウスが彼(キリスト)を死刑にした。」
十字架刑そのものがローマ帝国がキリストを殺した証拠の一つです。ローマ以外はそのような刑はしなかったのです。ローマは、十字架刑を発明したわけではないですが、一番残酷なやり方として完成しました。絶対女性を張り付けにはしませんでした。一番低い身分のものが十字架刑にされたのです。この刑は、何日もかかったのです。完全に裸で、すごい恥を体験したのです。中心の広場のような公のところで処刑したのです。ローマのクインテリアンはこう言いました。「犯罪人を十字架に付けるとき、一番混雑する道を選ぶ。多くの人が見て、恐れます。なぜなら、この刑は、報復のためよりも、さらしものにするためである。」BC70年代ごろにローマに対するスパルタカスと奴隷の反乱がありました。やっと治めたローマは、アピア街道のローマからカプアまでの200キロほどに6,000人の奴隷を十字架刑にしました。十字架刑は、ローマ特有の死刑のやり方だったのです。
2.ルカ22:1−2、ユダヤ人が黒幕。
ルカ22:1、丁度「ユダヤ人の過越の祭り」の頃でした。2節、ユダヤ教の「祭司長や他の宗教的指導者たちは、何とかイエスを殺そうと、あれこれ陰謀を巡らしていました。群衆の暴動を引き起こさずにイエスを葬り去るうまい方法がないものかと、やっきになっていたのです。」そして、後で、ユダヤ人のリーダーたちは、イエスを捕え、不正な裁判にかけました。23:21、ユダヤ人のリーダーが群衆を駆り立てて、ピラトの前で「十字架だ。十字架に付けろ」と言ったのです。
ヨーロッパの方では、ユダヤ人は”Christ Killer”(キリストを殺した者ども)と言われて来ました。あるいわゆるクリスチャンは「ユダヤ人がイエスを十字架につけてから」ユダヤ人をひどく迫害して良いのだ、と思ったのです。それは、ポグロムと言います。ロシア語で「破滅・破壊」という意味です。ロシア、ウクライナや東ヨーロッパで行われたユダヤ人に対する集団的迫害行為でした。ナチスは、けしてクリスチャンではなかったですが、ナチスの600万人以上のユダヤ人の虐殺は、このポグロムからはじまったでしょう。。。クリスチャンは、けしてユダヤ人を責めては行けません。なぜなら、神は、ユダヤ人を通して聖書と救い主イエスを下さったのです。キリストは、処刑を行っていたローマ人やユダヤ人にたいしても、十字架上で「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは、何をしているか分からないのです」と叫びました。私たちキリスト者も、赦すのです。
3.3−6、ユダが黒幕。
3−6「十二人の弟子の一人イスカリオテのユダはわざわざ祭司長や神殿の警備隊長たちのところへ出かけ、イエスを売り渡す一番よい方法を相談しました。この協力に彼らは大喜びでした。ほうびをやる約束までしたほどです。それでユダは、群衆が回りにいない時にひそかにイエスを逮捕しようと、チャンスをうかがい始めました。」そして47節、ユダは、ゲッセマネの園で、イエスに「口ずけ」をして、裏切りました。ユダヤ人は、そこで、イエスを捕えました。
5節「彼らは喜んで、ユダに金をやる約束をした。」「金」じたいは、罪ではないですが、私たちが金を愛したり、むさぼったりすることは、罪です。そして、私たちは、お金に影響され、イエスを(いわゆる)「裏がったり」したりしてしまうのです。他の罪と比較して、むさぼりの罪は、あまりピント来ないのです。私たちは、「自分にはけしてない」と思うのです。まわりの人を見て、比較するからです。でも、発展途上国の方から見ると、私たちは、お金を「神」にしているのです。「もったいない」ことを多くしていませんか?お金や貯金の事をあまりにも心配ししていませんか?寄付や献金を喜んでしていますか?。。。でも、イエス・キリストは、あなたのために何をして下さいましたか?心の王座からお金を取り、キリストを王と崇めるのです。神が罪深い私たちを十字架によって救った下さった事を真に信じると、私たちは、むさぼる人から与える人に変えられます。喜んで『十一献金』以上に与えるでしょう。
4.3節、サタンが黒幕。
3節、サタンが忍び込んだのです。「さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンが入った」とあります。人は、サタンの存在を認めませんが、サタンが主な黒幕なのです。
エペソ 6:12、今も「 私たちの格闘は血肉(人)に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」聖書は、創世記3章の初めから、サタンが「狡猾」であって、アダムとエバを誘惑した、とあります。サタンは、初めから、裏で操っていました。ちょうど黒幕のように、物事や出来事の背後で、サタンは働いています。サタンが神様のこの世での計画を邪魔しようと、企んでいたのです。今も、聖書によると、サタンは、神と人類にとっての1番の敵です。サタンはものすごく力があります。聖書は、サタンのことを「空中の権威を持つ支配者」、「この世を支配する者」と「偽りの父」とも呼んでいます。エデンの園で、サタンがエバをだまして、禁止されている木の実を食べるようにさせたのは、サタンが偽りものだからです。。。サタンの力はすごいですが、しかし、神様が許される範囲内だけの力です。1ヨハネ 4:4後半「あなたがたのうちにおられる方(イエス・キリスト)が、この世のうちにいる、あの者(サタン)よりも力がある(方)です。」
5.1コリント15:3−4、私が黒幕。
1コリント 15:3、後半「キリストは。。。私たち(あなたと私)の罪のために死なれた」と書いてあります。マルテン・ルターは、こう言いました。「私たちは、自分のポケットの中に彼(キリスト)ご自身(を十字架につけた)釘をもっているのです。」私とあなたの罪がキリストを十字架につけたのです。。。写真は、映画「パッション」の一場面です。メル・ギブソン監督が自分の手で釘を持って、キリストに打ち込んでいます。彼は、自分の罪がキリストを十字架につけたのである、と証ししているのです。
フィリピンのマニラの北部で、今月の受難週の金曜日に信じられないようなことが起こりました。カトリックの教会は、これを止めようとしました。が、経験なカトリック信者が自分の背中を血乱れにするまでムチで打ちました。ローマ兵に見立てた人が、ムチ打たれた人の手と足に釘を本当に打って、十字架に張り付けにしました。不思議に、周りは、お祭り騒ぎです。。。しかし、私たちは、このようなことはしなくても良いのです。唯一の神御自身である主イエスは、すでに十字架に架かって下さったのです。イエスの犠牲で十分なのです。。。霊的にも、心理的にも、自分をむち打つのも止めましょう。
神の摂理、イザヤ 53:10前半、使徒の働き2:23、4:27—28
摂理は、英語で”providence”と言いますが、”providence”は、”provide”(備える)という言葉から来ています。神が救いを備えたのです。神の場合「黒幕」とは言っては行けませんが、見えないところで、全てを治めている神は、十字架を計画し導いたのです。イザヤ 53:10前半「 しかし、彼(キリスト)を砕いて、痛めることは主のみこころであった。」
ルカ22:1−6で、宗教家や弟子ユダやサタンなどが、操って世間を掻き回しています。後で政治家も。しかし、7−13の後の文脈を読むと、それが嘘のように一時静まり、キリストは、全てを導き治めています。。。「準備」という言葉が三回以上出て来ます。主は、7−13、節「過越の(祭りの)食事」を摂理を持って、準備し、指示しています。結構具体的に、人や物や場所についても。13節「二人が町に行ってみると、何もかも言われたとおりです。こうして、食事の準備はできあがりました。」イエスが全て備えていて、摂理を持って導いているのです。1−6節の人間とサタンの策略があっても、7−13、摂理の神が働いて備えているのです。また、十字架を目標にしている主は、私たちの救いをも、備えているのです。。。使徒の働き2:23「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。」使徒の働き4:27—28「事実、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民といっしょに、あなたが油をそそがれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集まり、あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったことを行いました。」人間の陰謀でもありましたが、「神の定めた計画」によってイエスは、十字架にかけられました。。。人と悪魔の策略は、逆に人の救いとなったのです。イエスは、神の摂理によって、私たちの死ぬべき死を代わりとなって死んで下さったのです。
第二次世界大戦後、「昭和天皇は戦争犯罪人か?」と問われました。日本を良く知っていたマッカーサー元帥は、日本の将来のために、日本を治めるために、処刑されることは最善ではない、と分かっていました。マッカーサーは、天皇の罪の証拠を処分してしまいました。天皇は、確かに、戦争の最後は、平和を勧めていましたが、初めは、戦争を応援していたようです。彼も、自分の戦争責任を認め、国民のために死ぬ、とマッカーサーに言ったようです。でも、彼は、戦争責任を問われませんでした。ある日本のリーダーは、この連合軍の寛大さを認めました。でも、ある方は、それ見て「罪の責任は問われないのか?」と思ったようです。「彼が問われないのなら、私たちも。」そして、ある学者は「その時から、日本人は、責任というものを間違ってとらえて来た」と言っています。どうでしょうか?ある人は、背負いすぎて、止めたり、ある人は自殺までします。やり直しのきかない恵みのない行動です。ある人は、聖書の創世記のアダムとエバのように、世間のように、他の人に責任をなすり付けます。また、うやむやにしてしまいます。。。クリスチャンは、責任を取るのです。でも、それは、聖書的・福音的方法にです。自分の罪を認める事から始まります。自分が黒幕なのです。「責められるべきは、私」と認めるのです。。。でも、また、創造主である主キリストは、十字架の上で私たちの罪の責めを全て負おって、責任を取って下さったことを信じ受け入れるのです。そして、十字架の愛によって変えられます。もう罪の責めを負っていないから、止めないで、神が与えた神と人への愛の任(任務)を喜んで努めるのです。英語では、責任は”responsibility”で、応答するという意味です。私たちは、十字架の恵みに応答するのです。その責任はあるのです。
どうですか?今答えませんか?罪を認め、主とその十字架を仰ぎ見ませんか?