救いの証し
信濃チャペル牧師 齋藤邦夫
「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」(Ⅱテモテ3:15)
私は長野県の上田市郊外で故郷伝道に召されている信濃チャペルの牧師です。1987年、その年私の家族(私と妻・両親・二人の娘)6人が皆救われクリスチャンホームに変えられました。それは私達にとって全く予想もしていない出来事でした。
その数年前、隣の家にクリスチャンのお嫁さんが嫁いで来たのですが、隣の家のお母さんと私の両親がそのお嫁さんの変わった振る舞いには困ったものだとしきりに嘆いており、私もクリスチャンの隣の若夫婦をとても嫌っていました。
それからしばらくして隣が住居を新築し、新築祝いに招かれたのですが、その祝いの品の中に新約聖書が入っていたのです。「聖書か、こんな本貰ってもなあ。」と思いながら、迷惑半分にそれでもちょっと開いてみようかと手にとって読もうとするのですが、普通の本のようには読めないのです。私は、結構本が好きで、それなりに何でも読めるぐらいに思っていましたが、いったいこの本は何だろうかと思い、思い切って隣の若夫婦にたずねてみました。すると旧約聖書という本が先に在ることを知り、新旧約聖書を手に入れて、とにかくいっぺんこの読みにくい本に何が書いてあるか好学のために自分の目で確かめてみようと思ったのです。さっそく最初からページを開き始めました。物語のようなところと、わけのわからない名前や儀式につての事、イエスキリストについての話など新旧約聖書全部に目を通してみたのです。すると、これはいったい何だろうと、つぎつぎに色々な疑問がわいてきました。
聖書はキリスト教の経典または旧約はユダヤ教の経典ということは、聞いてはいるのですが、他の宗教のものとは、まるで勝手が違うのです。その中には人類の初めからの歴史の流れのようなものが見えるのです。神の創造による世界と人間、その堕落と神による救いと裁きについて、アブラハムの子孫ユダヤ民族通してなされる救いの約束が歴史を通して刻まれており、イエスキリストこそこの約束のお方であると読めるのです。
私は、1947年生まれの団塊の世代で敗戦の混乱と貧困の中、物心ついてから豊かさを求めて走り続け、厳しい生存競争に追われながらも、なんとか豊かな繁栄と幸せを手に入れたつもりでした。しかし、40歳を迎えようとしている自分の心の中の現実は、豊かさとはほど遠い恐れと虚無感と敗北感に押しつぶされそうなのです。自分の求めてきたはずの幸福は手に入れてみるとかげろうのよう逃げ去ってしまうのです。物質の豊かさや、競争によって本当の心の満足は得られない自分にどうしようもないのです。
そのような私の心に映る聖書の中に現れたイエス・キリストの生涯は、なんと非現実的な生涯なのだろうか。こんな世にも愚かな生き方を貫いた人が本当にいたのだろうか。人間の宗教的願いや理想の産物ではなのだろうか。また、キリストの弟子たちの愚かな生き方は、いったいどこから来たのか。聖書は人の心を慰めるための宗教的にうまく作り上げた方便なのか、それとも歴史の事実なのか、聖書をあちこち開きつきあわせながら疑っては考え、この世の現実と聖書が示す世界を行きつ戻りつしながら一年が過ぎようとしていました。
しかし、疑って問い詰めてゆくと聖書の歴史的な繋がりの中には人間の努力や願いを超えたお方の介入よることがますます感じられ、何か見えない方への畏れが迫ってくるのです。そんなことを繰り返しているうちに聖書の中の十字架に掛けられて甦られたイエス・キリストは歴史の事実であり、聖書に示されているとおりにみな信じてみようという思いに不思議に導かれていったのです。
1987年の正月、何かに追われるように初めて教会というところを訪ねてみました。それは、自分が聖書の中で見えたものを確かめてみたかったからなのです。そこで初めてクリスチャンの信じているものと自分の見えているものと同じであることを知りました。その夜、床につく前に初めて、「私は今まで神様が本当にいる事を知りませんでした。イエス様どうぞ私の罪を許して下さい。」と見えない方に語りかけ眠りにつきました。朝方布団の中でふと目を覚ますと、今まで味わったことのない不思議な静けさの中に聖書の歴史の流れとキリストに在る永遠の約束が今この時間の中で繋がってしまっているのが確かに見えるのです。
その後、家族が皆救われ、私はすぐに献身に導かれましたが、あれから29年、今も変わらずに聖書が私の信仰の土台であり、聖書のみことばを追い求め続けています。
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」Ⅱテモテ3:16
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