指揮者のために。ギテトの調べに合わせて。ダビデの賛歌
1 私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。
あなたのご威光は天でたたえられています。
2 あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。
3 あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、
4 人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。
5 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
6 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。
7 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、
8 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。
9 私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。
私たちは、しばしば、夫、妻、子供、恋人、名誉、業績、地位、お金、仕事などを通して自分の存在価値を得ようとします。でも、それは、極めて弱い土台です。。。鏡は、自分の光や美を作る事は出来ません。鏡自体には、美とか光はありませんし、それを生み出す力はないです。向かい合っているものによって、その美や光があるのです。あなたは、自分の内を探ったり、人の意見を聞いたりして、自分の真実の姿を知ることはありません。人間の真実な姿、その存在価値は、神の御言葉〜聖書〜から来ます。。。詩編8「人間とは、何でしょう?」聖書は、2−4、人間をとても低く見ていますし、同時に、5−7、とても高く見ています。高慢にならず、自己卑下もしない。
1.2−4、人間の卑しさ。つたない、とるに足らない者です。
一、2節、「幼子」と「敵対する者」の対照。1節、私たちは、神の「力強さ」や「威光」をどのようにして分かるのでしょうか?先ず、2−4、人間の小ささ卑しさからです。2節前半、神は、小さき弱い「幼子の口によって、復讐する者とをしずめ」るのです。権力者を、小さな者を通して、治め、支配するのです。
戦国時代の細川ガラシャ婦人は、あの本能寺の変の明智光秀の娘でした。父の謀反(むほん)によって、彼女は、夫・細川忠興(ただおき)に捨てられました。帰って来た時、彼は、他の女性を妻とし、ガラシャは、ヘアにずっと閉じ込められていました。でも、その望みない時に、キリストに出会ったのです。そして、ガラシャは、後ヨーロッパでこう歌われる事になるのです。「見よ、見よ、彼女は、辛苦(しんく、辛い苦しい事)の末に勝利を得た。拷問の苦しみを超えて勝利を得、苦しみを超えて勝った、全て聖なるキリストのもとに。」小さき者が権力者に勝ったのです。卑しいという言葉に、取るにたらない、つたない、という意味があります。世間から見たガラシャ夫人のように。でも、よりきつい卑しさが人間にあります。ガラシャの父・明智光秀は、信長を撃った卑しい者でした。ガラシャ夫人の夫も、卑しい者でした。彼女を人質にしようとし、死に追い込んだ石田三成も卑しい者でした。。。私たちの心にも、卑しさがあるのです。
二、3−4、「月や星」と「人」の対照。神に導かれて、この詩編を書いたダビデは、羊を飼っていた若い時でした。しばしば、夜、天を見上げて、3節、神が造られた「月や星を見」たのです。。。私も、一回、群馬県と長野県の境にあった標高3000メートルほどのキャンプ場で外に寝ていました。上を見て、信じられないような星の数でした。数分ごとに流れ星がすーっとすーっと流れていました。。。ダビデは、夜空を見て、4節、人間の小ささや卑しさを思い出しました。「人とは、何者なのでしょう。」私たちは、宇宙と比べて、ちっちゃい、ちっぽけなものです。。。4節の「人(エノーシュ)」は、「弱いもの」・「もろいもの」・「死すべきもの」という意味を含んでいます。「人の子」(ベン・アダーム)は、「土より出たもの」の意味です。。。パスカルがパンセでこう言いました。「人間は自然の中で一番弱い葦であるにすぎない。」
20世紀のはじまり、ハバード大学の哲学部のエマーソンホールが建たれている最中でした。屋根の目立つところにあるものが刻まれることになっていました。教授達は、考えて”Man is the measure of all things.”「人間を基準にして全てを測る」という言葉に決めました。でも、学長は、そんな人間中心の考え方に反対でした。教授達が夏休みから帰って来たら、建物は、完成してありました。でも、刻んであった言葉は、とても違っていました。この4節の言葉でした。「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。」人間は、つたない、とるに足らない者です。
聖書は、人間を着飾ったりはしません。聖書は、真実です。人間は、つたない、とるに足りない者だけでなく、罪人だと言っています。。。第2次世界大戦の後、ニュルンベルク裁判が行われました。多くのユダヤ人を殺害した犯罪者の裁判で、証人のユダヤ人が一人が見ていました。彼は、突然、気絶しました。どうして気絶したかと後で聞かれたら、彼は、こう答えました。「私は、彼は、怪物だと思いました。が、見たら、ただの人間だと分かったのです。」そして、不思議なことを言うのです。「私は、彼の立場にあったら、私は、同じ事をしたでしょう。」。。私たち皆の心にある原罪、罪を語っています。正直であったら、自分の醜さ、卑しさ、罪深さが見えます。ローマ7:24−25前半、ユダヤ系クリスチャンである使徒パウロは、こう書きました。「
私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか?。。。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」
2.5−7、人間の尊さ。
一、5節、「人」と「神」との対照。(ここは比較と言ったほうが良いでしょう。)「あなたは、人を、神よりいくらか劣(おと)るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。」造り主は、極めて崇高なお方です。そして、人間が次に位置して、最後に、動物が来るのです。創世記1:27前半「神は人をご自身のかたちとして創造された」とあります。人間の罪と堕落の後も、神の似せて造られた事は、変わりません。。。「神の形」と言うのは、体ではなく、神のように、知識、意志、感情がある事です。動物と違って、神と交わる可能性があるのです。この世での神の代理人です。想像力や、人格、理性があるのです。劇術、言語、発明出来るのは、人間です。猿は「猿とは、何でしょう」と話し合ったりはしません。あなたは、偶然の産物ではありません。あなたは、とても尊いです。。。私たちは、池を見ると、自分の形を部分的に見えます。でも、鏡を見るとき、自分をはっきり見えます。人間でない物は、全て池のようです。部分的にだけ神を反映しています。でも、人間は、鏡のようです。神の栄光をとても反映出来るのです。。。5節、神は、人間に「栄光と誉れの冠をかぶらせ」ているのです。
二、6−7、「人」と「御手の多くのわざ」との対照。ダビデは、ここを書いた時、創世記
1:26のあたりを心にしていたと思います。「彼ら(人間)が、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」ここの詩編では、6—7「あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。。。」動物を「治めて」いるのです。動物よりずっと尊いのです。
世間には「ヒューマニズム」(人間中心主義)があります。人間を神のようにします。2−4がそれを否定し、人間は、とるに足らない罪深い者、と教えています。しかし、聖書的ヒューマニズムがあります。矛盾にも聞こえます。が、人間のちっぽけさを覚えながら、反抗的な罪があっても、人間は、神に似せて造られ、神に愛され、キリストは、罪人の為に死なれた、と聖書にあります。。。私たち一人一人は、注目されたいのです。必死です。良い事やって注目を得なければ、悪い事をやって注目されたいのです。誰かに私たちの事を心にとめて欲しいのです。。。造り主がいなければ、私たちは、偶然の産物です。動物、機会、失礼ですが、理論的にゴミに過ぎません。でも、私たちは、人生をめちゃくちゃにしていても、ゴミではない、偶然の産物ではないのです。。。劇術家は、自分の作品を喜びを持って、眺めます。自分にとって尊いのです。そのように、神は、創世記1:31で、人間が作られた後、人間を喜び、「非常に良かった」と神は言ったのです。
C.S.ルイスは、人間についてこう書きました。「平凡な人間というのは存在しない。普段私たちが日常生活の中で接している人たちはただ単に死に行くだけの存在ではないのだ。国家、文化、芸術、文明、これらはやがて滅びるもので虫けらの命のようなものにすぎない。しかし、冗談を言い合ったり、一緒に働いたり、結婚したり、時には裏切ってしまったり、付け込んでしまうこともあるが、私たちの周囲にいる人たちは永遠に滅びることのない存在であるのだ。。。私たちの慈愛というものは本物でなければならない。それは犠牲を伴うものであり、罪に対する深い認識は持ちながらも罪人そのものは愛するということだ。。。私たちの隣人というのは、聖餐式のパンの次に私たちにとって聖なる実存在なのだ。まして、その隣人がクリスチャンならば、なおさらである。その隣人の内に、。。。栄光そのものであるキリストが宿っているということなのだから、それほどまでにその隣人は聖なる存在なのだ。」
最近、NHKを見ながら、驚くように統計を聞きました。東京で毎日8人の老人が孤独死で死んでいます。年間、3100以上です。尊い老人が死んでいるだけではなく、見捨てられて孤独に死んでいるのです。。。私たちは、何をするべきでしょうか?この松本で、安曇野で。。。他の尊い人の為にも。
社会は、人間について両極端な考えを持ちます。人を動物や機械にしたり、逆に、人を神や仏にしたりします。天国にいる小畑進牧師は、こう語りました。「その中にあって、人間の卑小さ(ひしょう、取るに足らない事)の告白とその人間を引き上げたもう神の恵みの大きさをわきまえる詩人の思想は、どんなに歌われても、人間をあるべき、最も健全な位置につけて過ちません。この宗教は、人間を高慢な怪物にする事なく、また無意味な海底の泥とすることのないものなのです!」
3.1と9節、神の偉大さ。
人間の小ささ卑しさを見ると、もちろん神は偉大である、と分かるのです。でも、また、人間の尊さを見ても、神は、それより偉大である、と分かると、けして人間を誉め讃え崇めません。神のみを崇め誉め讃えます。1と9節「私たちの主、主よ。あなたの御名は全地に(日本にも)わたり、なんと力強いことでしょう。」。。「力強い」という言葉は、優れている、栄光に満ちている、広大、偉大、崇高、威厳のある、輝かしい、壮大である、と言う意味があります。。。神の偉大さを見れば見るほど、自分の罪深さと尊さが分かります。神様が偉大であればあるほど、神が私たちの心にいればいるほど、神の輝かしさを見れば見るほど、自分の罪深さ、自分の尊さ、揺るがない真の自尊心が与えられるのです。これは、弱い自分から来るのではなく、揺るがない神から来るからです。
フランスのルイ14世は、4才の頃から王座に着き、72年間も支配しました。でも、自分の力に酔って、皇帝は、自分のことを「偉大な王、私が国家である」と呼びました。でも、他の人間と同様、1715年、彼は、亡き者となり、死にました。彼の葬儀は、彼が命じた通り、豪華で、遺体は、金と宝石の棺桶に入れられ、多くの方が参列しました。支配者の偉大さを演ずるために、大きな暗い会堂に、一本のロウソクが館の上に置いてありました。皆は、静かにその唯一の光を見ていました。指示された時、葬儀がはじまり、マシロン司教が、フランス全土の聖職者を含める、多くの方に語りはじめるところでした。立ち上がった時、司教は、講壇から手をのばしました。そして、彼は、ルイ14世の偉大さを象徴する、その唯一のロウソクの火をふっと消しました。皆が驚きました。それで、暗闇の中からこの言葉が響き渡りました。「神のみが偉大!」
そうです!神のみが偉大で、超越しています。でも「神の偉大さ」は、人類の歴史の中で不思議な方法で現れました。それは、十字架という弱さによってです。。。人間が高慢になり、堕落しました。それでも、唯一の神であるキリストは、御自身を卑しく低くしました。その十字架を通して、復活を通して、人に回復の道を備えました。主は、低くされた事によって、本来低いものである私たちを高く上げて下さいました。。。「私は、イエスを仰ぐ!イエスは、私を麗しくする為に、死にまで行って下さった。私が卑しくても、尊く思うイエスは、何よりも尊いのだ!詩編8:1、9『私たちの主、主よ。あなたの御名は全地に(日本にも)わたり、なんと力強いことでしょう。』神に優れた恵みがあるので、この卑しい罪人のためでさえ、死を味わってくださってのだ!」
人の存在価値は、外見、人の評価から来ません。私の存在価値は、聖書で語られている神とその恵みから来るのです。私たちは、信じられないほど、罪深いです。でも、信じられないほど、愛されています。キリストの十字架を通して、私たちは、どれほど悪いか分かるのです。なぜなら、主は、その為に死ななければなりませんでした。同じ十字架で、どれほど愛されているか分かるのです。主は、私たちの為に、喜んで死なれたのです。
人の存在価値は、外見、人の評価から来ません。私の存在価値は、聖書で語られている神とその恵みから来るのです。私たちは、信じられないほど、罪深いです。でも、信じられないほど、愛されています。キリストの十字架を通して、私たちは、どれほど悪いか分かるのです。なぜなら、主は、その為に死ななければなりませんでした。同じ十字架で、どれほど愛されているか分かるのです。主は、私たちの為に、喜んで死なれたのです。
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