「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。あなたの受ける分を七人か八人に分けておけ。地上でどんなわざわいが起こるかあなたは知らないのだから。雲が雨で満ちると、それは地上に降り注ぐ。木が南風や北風で倒されると、その木は倒れた場所にそのままにある。風を警戒している人は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない。あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様、風の道がどのようなものかを知らない。そのように、あなたはいっさいを行われる神のみわざを知らない。朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない。」伝道者の書11:1−6
私たちは、なぜ生まれたのか?なぜ学校に行くのか?でも、なぜ働くのでしょうか? ソロモン王は、ここで「働く意義」について語ります。
確かに、ソロモン王は『知恵は神抜きでは空しい』と言いました、伝道者の書1:12−18。究極的にはそうです。でも、毎日の生活の中では、知恵や分別が必要です。知恵を生きがいにはしないのです。真の神を生きがいにするのです。が、また、毎日の生活の中では知恵を適度に適用する必要があるのです。
先ず、多く与えよ、とソロモンは知恵を促します。
「あなたのパンを水の上に投げよ」とはじまります。「日常の常識を破る一撃です。」小畑進 もったにない!が、生活の大事なパン(日本ではお米)をあまりにも大事にするな、と言うことです。イエス・キリストはこう言いました。「人はパンのみによって生きるのではない。」ということは、逆に、まことに価値あるお方ー天地を造られた方—を最も大事にするのが極めて大事です。
戦国の勇者伊達政宗(写真)は、ある時、とても大事にしていた茶碗の名器を落としそうになって被汗をかいたそうです。当時、大名物といわれる茶碗は『一国一城』の価値がありました。幸いに割れませんでした。が、しばらくすると、政宗は、その名器を鷲づかみにして、庭先の沓脱石(くつぬぎいし)に叩きつけて木っ端微塵(こっぱみじん)にしました。伊達政宗はこう言ったそうです。「そも天下の豪傑ともあろうものが、たかが一塊の土くれ茶碗ごときものに、かくも魂消える、死ぬほどうろたえるとは何事ぞ。茶碗のための政宗か。政宗がための茶碗か。この心配のタネを木端微塵にしてやったわ。」
いつか、あなたも、自分の“茶碗”の奴隷となってしまっているのではないでしょうか? 人生の身軽さ、自由がすすめられているでしょうか?私たちは、本当に大事なものを大事にしているのでしょうか?栄光の神を、私たちのために死なれた方イエス・キリストを?
「あなたのパンを水の上に投げよ」と言うことは、もたいないように人に与える、という意味も含めていると思います。なぜなら「あなたの受ける分を七人か八人に分けておけ」と続けて書いてあります。恵まれたあなたは、その困っている尊い人に、自分の恵みから惜しまずに与えるということです。恵みを知っていればのことですが。。。
今度は、ソロモン王は、人のわざではなく、自然のわざについて語ります。そして、その動きの後ろに神の摂理があるのです。「雲が雨で満ちると、それは地上に降り注ぐ」のです。自然が自然に動くのです。自分があまりにも人生を計算(人生算盤)しすぎていることに恥ずかしくなります。「あなたのパンを水の上に投げよ」のように、もったいないように、施しをして良いのです。いや、キリストの恵みを体験した者は、そのように生活しなさい、とイエスは、励ましました。『受けるよりも与えるほうが幸いである。』
次に、良く働けよ、とソロモンは知恵を促します。
与える為に働け、と言うことです。「困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」聖書・エペソ4:28 「風を警戒している人は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない。」風向きをうかがうのは良いとしても、風向きばかり気にしているうちに、種蒔き時を逸し、刈り入れ時を失ってしまうのです。最後にこうあります。「朝のうちにあなたの種を蒔け。。。」「今の自分の責任をはたしたまえ、君!」小畑進
「知らない」という言葉が何度も出て来ます。「あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様、風の道がどのようなものかを知らない。そのように、あなたはいっさいを行われる神のみわざを知らない。。。あなたは、あれか、これか、どこで(仕事で)成功するのか、知らないからだ。」私たち人間は、自分の行為やわざを強調します。施すことや、働くこと。しかし、大事なのは、摂理を持って「行われる神のみわざ」です。私たちは、神の御わざをより大事にする必要があります。だが、その、神の働きが分からな時が多いです。ですから「ただ神の御旨にあり」です。私たちは、私たちの仕事において、神の摂理を知らないからこそ、我がままに計算するのではなく、全てを神に委ね、貧しい人に施し、それをまた出来るように、勤勉に働くのです。
でも、知っている「神の御旨」は、素晴らしくキリストの十字架に啓示されています。神は、死ぬほど人を愛しているのです。それが神のお心です。キリストを信ずる私たちは、これを『知っている』から、惜しまずに与え、また、勤勉に働くのです。
使徒パウロは、ソロモンの千年後にこう言いました。「この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」聖書・使徒の働き20:34−35
私たちの働く主な目的は、造り主の栄光の為にです。私を十字架で死ぬほど愛している神を愛しているからです。でも、「働く意義」のもう一つ理由があるのです。隣人愛です。「あなたの受ける分を七人か八人に分けておけ」です。施すことが出来るようにです。
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