Tuesday, September 22, 2015

「主はよみがえられた!」


先ず、下の聖書のルカ24:1−12を読んで下さい。

週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。見ると、石が墓からわきにころがしてあった。入って見ると、主イエスのからだはなかった。
   そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」
   女たちはイエスのみことばを思い出した。そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このこと(2)を使徒たちに話した。ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。しかしペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。それで、この出来事に驚いて家に帰った。


私は、理屈っぽい信州人です。私たち信州人は、冬、コタツを囲んで、野沢菜をくって、お茶を飲みながら、議論するのが好きだそうです。。。私は、小さい頃からキリストについて聞いていました。8才の頃、本当にキリストを信じたと思います。が、高校3年生の頃、聖書を本気で疑いはじめました。でも、私は、神の存在を否定出来ませんでした。また「神は、世を愛された」ことを否定出来ませんでした。ならば、必ず神は、私たち人間に語って下さるでしょう、と聖書が本当に神様の言葉と確信しました。。。私は、ダラス神学校に行った頃も、また疑いました。なぜなら、聖書の知識で「頭でっかち」になっていたからです。十字架も、復活も、疑いはじめました。でも、日本人チャペルの兄弟姉妹達の愛を通して、また確信を受けました。宣教師であったと時も、疑いました。その頃、後ここでもメッセージしたデア・ハイルマン牧師が「私が疑う時、復活の歴史的事実を思い出す」と言いました。。。そうです。私たちは、それによって、聖書全ての真実さが分かります。

ある人は、キリストの復活の真実さは、そんなに大事だとは思わないのです。道徳主義者は、こう言います。「歴史的事実は、大事でない。キリストの模範が大事。」感情的な人は、こう言います。「歴史的事実は、大事でない。教会の温かい雰囲気が大事。」主観的な人は、こう言います。「歴史的な事は大事でない。私の体験が大事。」哲学的な人は「歴史的な事は大事でない。ただ良い人生観を持つのだ」と言います。宗教的な人は「歴史的な事は大事でない。『鰯の頭も信心から』でしょう。」確かに、多くの宗教にとって、歴史的事実は、大事でないのです。ただ、公子の儒教のように「良い教えさえあれば」歴史も関係無いのです。でも確かな救いもないのです。ある仏教学者は「仏教には、歴史の意識はない」と言いました。しかし、聖書によると、事実がカギです。プリンストンの元教授グレッシャム・メーチン博士は、こう言いました。「キリスト教は、哲学的な思い付きによって出来たのではありません。復活、この歴史的事実、によって、出来たのです。」

今日の箇所は、こう教えています。復活の証拠もたくさんありますが、キリストの復活の事実の確信を持つ一番いい方法は神の御言葉、聖書を通してです。神の御言葉を通してー ここでは、特に6後半—7節、神であるキリストのお言葉を通してー 復活の事実を確信出来ると教えています。

1.ルカ24:1−3、キリストの墓は、実際にカラであったことは、まぎれもない事実です。キリストの十字架の死が事実のように、カラの墓も事実です。これを疑う人は、いないはずです。

ならば、キリストの体はどうなったのでしょうか?聖書を疑う懐疑(かいぎ)論者は、こう言います。「カラの墓は、ただの伝説。本当にカラではなかった。」。。ある人は「キリストの復活は、肉体的な復活ではなく、霊的な復活。」。。さらに他の人は「体は、弟子に盗まれて、彼らが物語をでっち上げた。」。。面白い話しがあります。青森県の小さな町新郷村(しんごうむら)に“キリストの墓”という記念碑があります。今も十字架がその横に建ててあります。そこの話しでは、イエスは、実際は、エルサレムでは死なないで、日本に逃れて、後に神郷村で死んだ、とか。多分、昔、シルクロードを通して来たクリスチャンの墓がそこにあったのではないか、と思われています。新郷に、確かに不思議な名字があります。ヨハネ、与羽根、(与えるに、羽に、根っこの根)、ヤコブ、弥古部、(弥生の弥、古いに、部分の部)。実際『キリストの墓』にした本当理由は、町おこしだったそうです。

学者は、こう言っています。1)福音書にある歴史の記録によって復活の真実さが分かります。メリル・テニー博士は、こう言っています。「福音書の根本的な正しさ疑う必要はありません。福音書全体が復活について一致しています。」
2)当時、復活の生き証人もいました。その記録は、1コリント15:6です。「キリストは、500人以上の兄弟たちに同時に現れました。」。。当時、復活の真実さを聞く事が出来たのです。
3)教会が存在していることだけでも復活の証拠となります。元無心論者のF.J.フォークス・ジャクソンは、こう語りました。「キリスト者が復活を信じていなかったら、キリスト教という宗教は、存在しなかったでしょう。」
4)信じていなかった方が信じるようになりました。ルー・ワレス伯爵は、徹底的にキリスト教を破壊しようとしました。しかし、調べれば調べるほど、信じざるおえなかったのです。そして、彼は「ベンハー:キリストの物語」を書いたのです。。。オクスフォード大学のトマス・アーノルド博士は、こう書きました。「キリストが死なれ、死人の中から蘇られたほど確かな事実は、人類の歴史にはない。」

2.4−7、自身の復活についてのキリストの言葉を覚えるのです。私たちは、復活されたキリストを見たことはありません。でも、色んな証拠があります。が、一番大事な証拠は、キリスト御自身の言葉です。それによって、キリストの復活の事実性が分ります。

4−5、先ず、神の使いがキリストの復活の事実を証言しました。4節、証人が、ただ一人ではなく、二人いました。法廷では、証人が二人いたら、立証するには十分です。でも、この二人に加えて、先程言ったように、キリストの復活の証人は「500人以上」いた、とパウロが記録しました。そして、5節、この証人は、ただ者ではなかったのです。特別な存在でした。女性たちは、この偉大の存在にひざまずくくらいでした。

5−7、実は、キリストは、自分の十字架と復活をすでに予言していたのです。この使いは、復活についてのキリスト御自身の言葉を思い出させました。。。5節、このみ使いと同様に、この女性たちは、復活の証人であったはずでした。キリスト自身がそれについてすでに話したからです.しかし、理に合わない事をして、“お墓参り”をしたのです。「なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか?」御言葉を覚えていたら、変な行動です。。。そして、6節、み使いは、はっきりと『キリストは、復活された』と宣言しました。「ここにはおられません。よみがえられたのです。」で、神の使いは、キリストの言葉と預言を語ります。6後半—7節「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」前言ったイエスの復活についての予言、または言葉は、十分であったはずです。。。私たちにとっても。。。

この7節の「なければならない」は「必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえる」の全文にかかっています。「必ず罪人らの手に引き渡され〜なければならない。」「必ず十字架につけられ〜なければならない。」「必ず三日目によみがえ〜なければならない。」旧約聖書の予言通り、キリスト自身の予言通りに、’MUST’で、ならなければならない、と言っているのです。私たち人間に極めて重大な罪があるから、「必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ〜ならなければならない」のです。神が聖い聖い方ですから、誰かが贖い償わならなければならないのです。誰かが私たち人間の罪の罰を受けなければならないのです。そして、キリストは、十字架上で、私たち人間の罪の罰を受け、償い贖ったのです。。。この十字架の「なければならない」が分かると、復活のなければ「ならない」が分かるのです。栄光の主が死ぬのなら、必ず復活するのです。そして、私たちは、この十字架と復活の御言葉を信じ受け入れなければならないのです。’MUST’です。

金沢にいた頃の私の知り合いトム・ヘーステングスがこう証ししました。「私は、イエスがとても大事な人物だと思うのは問題なかった。でも、十字架の事そしてカラの墓。それは、ただ弟子たちの願いにすぎなかったでしょう。」でも、トムは、福音書を読みはじめ、まもなくキリストを信じるようになりました。。。私の昔の知り合いの安倍さんは、ダラスで仕事していました。働いていた事務所でリビングバイブルを発見しました。聖書を理解しに日本人チャペルに来ました。「このキリストは、何者だ」と質問を聞きはじめました。後、彼は、復活を学び、キリストを信じるようになりました。。。あなたは、どうですか?キリストの御言葉ー聖書ーを信じますか?

3.8−12、神の言葉の証言を通して、キリストの復活の確信を持つのです。

8節、女性は、確かに、キリストの言葉を覚えました。当時、その社会では、女性は、身分の低い者でした。が、このように、素晴しい尊敬すべき返事をしました。復活についてのキリストの言葉を受け入れたのです。。。今も、女性は、神様の事について柔軟な心を持っていますね。。。ついでに、ここにも、復活の証拠があります。女性の名前が並んでいます。ただ「女性」と書いてありません。具体的に、10節「この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも。」本当にいた女性です.本当にあった復活です。

9−11、弟子たちは、はじめは、女性の証言を聞き入れませんでした。この女性は、大事な友達でしたが、この偉そうな男性は、彼女たちのいわゆる「卑しい」言葉をうけいれませでした。。。オクスフォード大学のC.S.ルイスは、ナルニア物語の「ライオンと魔女」という小説で、この11節を例えていると私は思うのです。ルーシーという女の子は、古い屋敷のタンスを通して、ナルニアという違う次元の国に行くのです。でも、帰って来た後、その話しを年上の兄弟に言っても、信じないのです。ルーシーは、嘘をついているか、変になったか、と思うのです。兄エドモンドは「何もないでしょう!」と彼女を見下して、言いました。でも、ルーシーは、話しを変えません。「皆がどう思いってもかまわない!」同じ屋敷に教授が住んでいました。彼は、4人の話しを最後まで聞きました。そして、こう言いました。「あなたの妹の話しは、真実でないと、どう分かるの?。。。理論!どうして最近の学校で理論を教えないのか?三つの可能性しかない。あなたの妹が嘘をついているか、気が狂ったか、真実を言っているか、です。君たちは、ルーシーは、嘘をつかないと知っているし、気が狂っていないことは明らかです。それでは、今のところ、他に証拠が発見されるまでは、私たちは、彼女が真実を言っているという前提に立たなければならない。」。。弟子達は、女性の話しを聞くべきでした。キリストの言葉と行動を見ると、けして気が狂っていません.聖書を読むと真実である事が確かです。私は、神の言葉の証しを信じています。

12節、ペテロは、確かに、墓に行って、不思議に思いながら、帰って行きました。。。あなたは、この女性が信じているように、まだ信じられない可能性があります。が、他の弟子のように、愚かであってはなりません。ペテロと似たように、続けて追求しなければなりません。聖書を読まなければなりません。「このキリストは、何者なのだろうか?」と「この出来事に驚く」のです。。。子供の頃覚えていますか?世界は、不思議なものでいっぱいでした。チョウチョ、雲、アイス、金魚、風車。でも、あなたは、大人になって、いわゆる「知恵がついてきて」、心が冷えて、鈍くなって、固くなってしまいました。「だっていろいろ体験しているから」と言うのです。へ理屈をやめなさい!造り主は、真にいるのです。主は、真に私とあなたのような罪人のために死なれたのです。主は、真によみがえられたのです。「主よ、実感させて下さい!」

ある方は、こう書きました。「ソクラテスは40年教えました。プラトンは50年。アリステレスは40年。そして、イエスは、たったの3年。しかし、イエスの3年の奉仕の影響は、この方々の教えの組み合わせた130年の影響をはるかに超えている。人間が偉大と言われている全ての分野は、この謙遜のナザレのイエスによって豊かにされています。(でも)イエス・キリストの人類への特別な賜物は、魂の救いです!哲学は、それを果たす事は出来ません。芸術も。文学も。音楽も。イエス・キリストのみが私たちを縛る罪と悪魔から解き放てます。キリストのみが私たちの心に平安を語り、弱い者を強くし、霊的に死んでいる者に命を与える事が出来ます。」

信州人は、冬、コタツを囲んで、野沢菜をつまみながら、議論するような理屈っぽい民です。私もそうです。時々、私は、マルコ9:24にあるように祈らなければなりません。「信じます。不信仰な私をお助けください。」

ロバート・マックイルキンはこう言いました。「信仰は感情でも、見えるものでもない。信仰は神のみ言葉に基づいて神を捕え、神の真実をあてにすることである。」主イエスは、神の言葉通りに真に復活されました。神の御言葉ですから、信じるのです。主は、天に昇り、全てを治め、私たちのために祈り、顧みて下さっています。そして、聖霊様を通して、主は、今も、ここで私たちと共にいます。復活された主の臨在を常に信じ、意識し、復活された主の臨在を確信するのです.マタイ28:20後半「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」ここに、常に、今。

Tuesday, September 15, 2015

「読書の秋」


「読書の秋」の由来は、古代中国から来て、秋の長い夜に明かりをつけて読書に敵している、という意味から来ているそうです。この秋に世界のベストセラー、日本のベストセラー聖書を読みませんか?

リンカーン大統領は、こう言いました。「この偉大な本(聖書)に関しては、神が与えたどんな本よりも優れた本、というしかありません。世の救い主(イエス・キリスト)の全ての恵は、この本から私たちに伝えられています。この本なくしては、私たちは、善悪を知りません。人間が好む全てのものがここにあります。」(どんな本よりも優れた本

「イエスは答えて言われた。『「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことば(聖書)による」と書いてある。』」聖書・マタイ4:4



Wednesday, September 9, 2015

十字架の意義 2


先ず、下の、聖書・ルカ23:32−39をもう一回読んで下さい。

ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。「これはユダヤ人の王」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。


2.36−39、十字架によって、救われている。

35節、一般の「民衆」だけではなく、宗教の「指導者たち」だけではなく、36節「兵士たちもあざ笑って言った」のです。また、39節「犯罪人のひとり」も。「自分を救ってみろ。。。自分を救え。。。自分と私たちを救え。」この数節に3回も「自分を救え」とあります。でも、主イエスは、自分を救わなかったのです。なぜ、人を癒した、生き返らせた、海を沈めた主イエスは、自分を救わずに、そのまま十字架上に残ったのでしょうか?。。。私たちを救うためです。イエスは、自分を救わなかったから、私たちを救えたのです。。。キリストは、十字架上から、人々を眺めていました。イエスは、その人々のために死んでいたのです。ある人は、残酷で、ある人は、臆病者で、ある人は、あざけ笑っていました。彼らは、十字架上でイエスは、何をしているかさっぱり分かりませんでした。が、主イエスは、人類最大の愛の行為として十字架上にただただ残ったのです。。。主が十字架上で私たちの代わりに裁かれる事によって、私たちを救ったのです。イエスは、私たちが受けるべき罰を代わりに受け、神の正しい怒りの的となり、私たちの罪を赦したのです。罪と神の正しい怒りから私たちを救ったのです。そして、私たちは、神の元へと救い引き上がられました。

昔、中国で儒教の先生がクリスチャンになりました。その弟子たちが来て「先生はいつでも軽挙妄動をおさめておりながら、なんですか!あの毛唐がきて、いっぺん説教を聞いただけでクリスチャンになるなんて。それは聞こえません」と抗議を申しこみました。。。そこで先生は次のような例えをしました。「私は野原を歩いて、足を滑らせて野中の井戸に落ちてしまった。“助けてくれー”と叫んでいると、孔子が通りかかって声をかけてくれた。『お前はどうしてこんなところにいるのかね。』『野原を勝手に歩いていたもんですからおこっちたのです。』『それはいかん。ちゃんと人の通る道がある。道でないところをお前が歩いたから、こういうことになったんじゃ。以後気をつけれよ。ちゃんと人間の道をあるけよ』と教えて下さいました。けれども今、野中の井戸に落ちている私は、そんなことは千も万も承知しています。この井戸から出してくださる人が欲しいのです。。。また“助けてくれー”と叫んでいると、足音が聞こえてきた。やれやうれしやと思ってみると、お釈迦さんでした。そしてまた『どうしてお前は落ちたのか。ああかわいそうなことをしたものよ。なんでも気をつけないとこんな目にあうぞ。助けてつかわすから手を出しなさい』とおしゃいました。手をのばしたら、お釈迦さんも手をのばしてくださまたが、どうしても一尺ばかりたりながったのです。そこでお釈迦さんは『さてさてお前は業が深いのう。前世の因縁じゃ、あきらめよ』とおっしゃって、向こうへ行ってしまいました。。。だが、あきらめきれないので、“助けてくれー”と、なおも叫んでいました。すると、こんどはイエス・キリストが来ました。いやなやつが来たな、と思っていやな顔をしていたけれども、なにせ、だれでもいいから助けてむらおうと思って手をのばしたところが、どうしてもたりないのです。そうしたら、そのキリストが井戸の中にとびこんで来て、しゃがんで『私の肩にのりなさい』というから、その肩にのったら、その肩の足をサーッと押しあげて外へ出してくれた。『もう二度と来るんじゃないよ』と言ってくださいました。「だから私は、キリストを信じたんだよ。」私たちは、キリストがこの世に入って、身代わりに十字架上で死ぬ事によって、神の元へと救い引き上がられました。

私たちは、権力を重視する世の中にあります。当時も、人々は、弱さによって来る救い主イエスを理解出来なかったのです。。。でも、私たちは、弱さによって神に近よるのです。ある人は、自分の道徳や、実績や、力に頼っています。他の宗教の全ての指導者は、こう言います。「自分の力を尽くして私の教えに従ったら、あなたは救われる。」人々は、自分の為に誰かが死ぬ必要はない、と思うのです。ただの従える模範が欲しいのです。お手伝いさんが欲しいのです。自分に自信があるからです。。。心理学者は「いや、いや、いや。あなたは、そんなに悪い人じゃないよ」と励ますでしょう。聖書にこうあります。「その罪のあるあなたこそ十字架に来れます。」。。イエスは、こう言っています。「あなたは、自ら私の教えに従うのは無理。でも、あなたは、私の教えに従えないことを認め、ただ恵みによってのみ救われることを認めると、引き上げられる。」私たちは、自分の罪の認め悔い改める事と、ただ恵みによってによって近よれます。。。「負けるが勝ち」と言われて来ましたが、『私は、有罪です。私は、処罰されるべき者です。しかしながら、その刑罰は、イエスの上に落ちたのです。十字架上で、イエスが負ける事によって、勝ったのです。私が自分を救えない事を認める事によってのみ救われる。』

私たちは「和」の文化にあります。35節、一般の「民衆」、聖書をいちおう信じていた宗教の「指導者たち」、36節、外国の「兵士たち」、39節、不道徳な「犯罪人のひとり」も、皆クロン人間のようにキリストに「自分を救え」とあざけっていました。「こんな弱々しい者は、救世主ではない」と皆で決めつけているのです。間違っていても、危険でも「皆で渡れば怖くないのです。」グループ現象は、怖いし、危ないです。皆が「十字架は愚か」と言っているのです。だって、十字架は、神の聖さを前提にするし、罪を指摘します。また、どんな罪人も、恵みによって、救われるのです。不道徳な罪人も。。。「長い者に巻かれる」危険性を噛み締め、信仰者は、長いもの巻かれないのです。皆にただ合わせないのです。また、皆から変な目で見られても、自分でしっかり考えるのです。

私たちは、御利益宗教的な考えにとても影響されます。39節、 最後の犯罪人は「自分と私たちを救え」と御利益をイエスにぶつけていました。でも、心の救いよりも、体の救いを願っていたのです。神社や、お寺に行くと、家内安全、商売繁盛、合格祈願の札やお守りを買います。クリスチャンでも、信じれば必ず思う通りに癒される、いつも楽観的に生きる、全然失敗してはいけない、と思います。。。あなたもこう言った事があるでしょう。「この状況から私を救ったら、私は、あなたを信じます。私の条件を満たしたら、私は、仕えます。私は、良い人だから、神様、これを与えなさい。」全知全能の神様よりも、自分が全部を知っているかのように、神に指示するのです。救い主の「ぬし」(しゅ)を無視して、お手伝いさんやアシスタントが欲しいのです。ただ自己中心に自分の夢がかなうように。私たちは、本当にいる神よりも、自分に都合がいいような神が欲しいのです。このようにして御利益を主にして、真の神を見いだし、発見する事は出来ません。神は、全能だけではなく、全知で、知恵に満ち満ちています。神は、ベストを知っています。知恵に満ち満ちている神にお任せするのです。ご利益を求めるよりも、神御自身を求めるのです。状況を変えてもらうよりも、あなたの神観を変えなければなりません。神様に人生の幸せを願うよりも、神様御自身を慕うのです。

34節「彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」とイエスは、十字架上でいわれました。でも『私は、わかってる!』と思うのです。私たちは、十字架についての真理を知っても、その真理は、私たちを本当に変えているのでしょうか?情報を持っていますが、ピントきていますか?。。。イエス御自身とその十字架の御業を仰ぎ見、眺めなさい。キリストを信じ仰ぐあなたのために死なれたのです。あなたを赦されたのです。これが本当にピーンと来るとると、人を赦し、嫌な人でも愛し、そのために祈れる人になれるのです。『主よ、私を受け入れて下さい。私の道徳のゆえではなく、イエス様の十字架のゆえに。。。主よ、悟りが必要です。聖霊様、悟らせて下さい。』

イギリスの有名な伝道師ジョン・ウェスレーは、18世紀アメリカなどで伝道しながらも、まだイエス・キリストに真実に心から出会っていなかったのです。そして、彼は、あるイギリスのアルダーズゲート通の集会に行きました。ある兄弟は、マルテン・ルターのローマ書から読んでいました。ウェスレーは、こう書いています。「私の心は、不思議に燃えた。私は、救いのためにキリストまたキリストのみに頼ったのを感じた。キリストは、私の罪を取り除いたのです。私は、罪と死から救われた確信を与えられた。」

黒人霊歌、聖歌の400番にこうあります。「きみもそこにいたのか、主が十字架につくとき。あぁ・・なんだか心が震える、ふるえる。。。」


Monday, September 7, 2015

「グロリー」


先週の土曜日、家族皆で映画「グロリー」(英語名:Selma)を見に行きました。とても良かったです。キング牧師の平和的人権運動についての映画です。暴力も十分ありますので、小学生以下は、遠慮したほうがいいと思います。私たちが行く松本のCinema Lights Eightは、今週の金曜日(11日)まで見せています。映画「グローリー -明日への行進-」公式サイト

映画の最後に、題名のように「神に栄光」という歌で終わります。聖書:ルカ2:14「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」



Wednesday, September 2, 2015

十字架の意義 1


先ず、下の、聖書・ルカ23:32−39を読んで下さい。

ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。「これはユダヤ人の王」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。



世界中のどこに行っても十字架があります。でも、その意味も分からない人がとても多いです。十字架のチェーンを首に付けている人もいます。日本の結婚式場にもあります。赤十字や病院のマークでもあります。ある人は十字を切ったり、教会の屋根にあったりします。また私たちの教会では、意識して十字架の歌を多く歌います。「十字架のそばに近づくなら。。。」でも、考えてみたら、十字架は、死刑の道具です。打ち首、絞首刑、電気椅子です。客観的に、また主観的に私たちにとって、十字架は、どういう意味があるのでしょうか?。。。34節真ん中、十字架の上で苦しんでいた主イエスは、こう言いました。「彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」。。彼らは、罪のない神の子イエスを十字架に付けていたのです。彼らは、目の前に起こっていた十字架の素晴らしさに無頓着でした。そこにいた、聖書を良く知っていたはずの宗教家のパルサイ人でも鈍かったのです。「だって、救世主は、このような弱さの中で死ぬはずはない。」。。十字架の回りにいた一人一人には、悟りが必要でした。。。どうして、今も、日本ではクリスチャン人口は0.5%でしょうか?悟りが必要です。十字架は、世間の考え方と真逆です。でも、クリスチャンの問題でもあります。私の問題です。十字架の尊さは、知りながらも、知らないのです。「主よ、知恵を与えて下さい。目を開けて下さい。」。。オーストラリアのリアン・モーリス博士はこう言いました。「新約聖書は、十字架の意義に注目を当てている。」「十字架の意義」は、何でしょうか?この箇所では、十字架の意義は、少なくても、(1)赦しと(2)救いだ、と教えています。

1.  32−35、十字架によって、罪赦されている。

人を赦すことは、極めて難しい事です。奇跡です。私たちは、テレビで、しばしば被害者の家族から「絶対赦せません」と聞きます。。。先月、アメリカのチャルストンの教会で黒人9人が白人によって射殺されました。過激的な人種差別が原因でした。しかし、不思議な事は、遺族は、怒り悲しみながらも、犯罪人にこう答えました。「私たちの心には、憎しみを抱く場所はない。赦さなければならない。。。あなたは、私を傷つけましたし、多くの人を傷つけました。が、神はあなたを赦します。そして、私は、あなたを赦します。。。」これを本気で言える原動力は、どこから来るのでしょうか?

イエス御自身とその十字架の御業から来ます。32節、彼らは、罪のない、人をとても愛されたイエスを「ほかにもふたりの犯罪人とともに死刑にされるために、引かれて行った」のです。33節「犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。」34節、冷たい心で「(ローマ兵)は、くじを引いて、イエスの着物を分けた」のです。また、回りの全ての人は、35ー39「自分を救ってみろ」と何回も言っていました。でも、イエスは、このようなひどい状況で「父よ。彼らをお赦しください」と祈ったのです。。。この恩方御自身があなたの赦しの原動力です。

「父よ。彼らをお赦しください」と言った時、十字架のまわりにいた人たちだけのために祈っていたのではないです。確かに彼らの為に祈っていました。そして、そこにいた多くの人たちは、赦され、キリストの恵みに預かった、と学者は言います。でも、私たちもその十字架の御業によって、赦された、赦されているのです。この十字架の赦しが私たちの人を赦す原動力です。

私たち人間は、天地が造られた神と素晴しい交わりを持っていました。しかし、間もなく、私たちは、神に背を向き、神に従わない道を選びました。これは「原罪」と言います。ですから、人間は「罪人」(ある面で“ざいにん”)と聖書で言われています。。。栄光の神に対して犯した罪ですから、通常は、赦されないはずの罪です。しかし、神は、私たちを赦して下さったのです。(けして、罪を許可するほうの許しではないですが。)神は、すごい犠牲を払ってしか出来なかった赦しです。誰かが罪を償わなければならないのです。ですから、御子なる神御自身が、この罪にまみれている世に来て下さったのです。そして、十字架上で、私たちの死ぬべき死を代わりとなって死んで下さったのです。御子なる神が償ったから、赦せれるのです。

殺された黒人の被害者の家族のもう一人はこう言いました。「悔い改めなさい。告白しなさい。一番大事なお方、キリスト、に自分の人生を捧げなさい。あなたに何が起こっても、キリストはあなたの道を変えて下さるように。そして、全ては『大丈夫』」。英では"OK"。私たちも、自分の罪を認め悔い改めなければなりません。。。罪を悔い改めて、イエスを信じている私たちは、もう裁かれないのです。罪に定められないのです。“OK”です。この上間なく愛されています。。。この十字架による赦しを仰いで味わって楽しんで、心が変えられ、柔和にされ、強くされ、人を赦すのです。あの人、この人、その人を。赦された私たちも、赦さななければなりません。

つづく。。。