先ず、下の、聖書・ルカ23:32−39を読んで下さい。
ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。「これはユダヤ人の王」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。
世界中のどこに行っても十字架があります。でも、その意味も分からない人がとても多いです。十字架のチェーンを首に付けている人もいます。日本の結婚式場にもあります。赤十字や病院のマークでもあります。ある人は十字を切ったり、教会の屋根にあったりします。また私たちの教会では、意識して十字架の歌を多く歌います。「十字架のそばに近づくなら。。。」でも、考えてみたら、十字架は、死刑の道具です。打ち首、絞首刑、電気椅子です。客観的に、また主観的に私たちにとって、十字架は、どういう意味があるのでしょうか?。。。34節真ん中、十字架の上で苦しんでいた主イエスは、こう言いました。「彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」。。彼らは、罪のない神の子イエスを十字架に付けていたのです。彼らは、目の前に起こっていた十字架の素晴らしさに無頓着でした。そこにいた、聖書を良く知っていたはずの宗教家のパルサイ人でも鈍かったのです。「だって、救世主は、このような弱さの中で死ぬはずはない。」。。十字架の回りにいた一人一人には、悟りが必要でした。。。どうして、今も、日本ではクリスチャン人口は0.5%でしょうか?悟りが必要です。十字架は、世間の考え方と真逆です。でも、クリスチャンの問題でもあります。私の問題です。十字架の尊さは、知りながらも、知らないのです。「主よ、知恵を与えて下さい。目を開けて下さい。」。。オーストラリアのリアン・モーリス博士はこう言いました。「新約聖書は、十字架の意義に注目を当てている。」「十字架の意義」は、何でしょうか?この箇所では、十字架の意義は、少なくても、(1)赦しと(2)救いだ、と教えています。
1. 32−35、十字架によって、罪赦されている。
人を赦すことは、極めて難しい事です。奇跡です。私たちは、テレビで、しばしば被害者の家族から「絶対赦せません」と聞きます。。。先月、アメリカのチャルストンの教会で黒人9人が白人によって射殺されました。過激的な人種差別が原因でした。しかし、不思議な事は、遺族は、怒り悲しみながらも、犯罪人にこう答えました。「私たちの心には、憎しみを抱く場所はない。赦さなければならない。。。あなたは、私を傷つけましたし、多くの人を傷つけました。が、神はあなたを赦します。そして、私は、あなたを赦します。。。」これを本気で言える原動力は、どこから来るのでしょうか?
イエス御自身とその十字架の御業から来ます。32節、彼らは、罪のない、人をとても愛されたイエスを「ほかにもふたりの犯罪人とともに死刑にされるために、引かれて行った」のです。33節「犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。」34節、冷たい心で「(ローマ兵)は、くじを引いて、イエスの着物を分けた」のです。また、回りの全ての人は、35ー39「自分を救ってみろ」と何回も言っていました。でも、イエスは、このようなひどい状況で「父よ。彼らをお赦しください」と祈ったのです。。。この恩方御自身があなたの赦しの原動力です。
「父よ。彼らをお赦しください」と言った時、十字架のまわりにいた人たちだけのために祈っていたのではないです。確かに彼らの為に祈っていました。そして、そこにいた多くの人たちは、赦され、キリストの恵みに預かった、と学者は言います。でも、私たちもその十字架の御業によって、赦された、赦されているのです。この十字架の赦しが私たちの人を赦す原動力です。
殺された黒人の被害者の家族のもう一人はこう言いました。「悔い改めなさい。告白しなさい。一番大事なお方、キリスト、に自分の人生を捧げなさい。あなたに何が起こっても、キリストはあなたの道を変えて下さるように。そして、全ては『大丈夫』」。英では"OK"。私たちも、自分の罪を認め悔い改めなければなりません。。。罪を悔い改めて、イエスを信じている私たちは、もう裁かれないのです。罪に定められないのです。“OK”です。この上間なく愛されています。。。この十字架による赦しを仰いで味わって楽しんで、心が変えられ、柔和にされ、強くされ、人を赦すのです。あの人、この人、その人を。赦された私たちも、赦さななければなりません。
つづく。。。
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