Wednesday, September 9, 2015

十字架の意義 2


先ず、下の、聖書・ルカ23:32−39をもう一回読んで下さい。

ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。「これはユダヤ人の王」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。


2.36−39、十字架によって、救われている。

35節、一般の「民衆」だけではなく、宗教の「指導者たち」だけではなく、36節「兵士たちもあざ笑って言った」のです。また、39節「犯罪人のひとり」も。「自分を救ってみろ。。。自分を救え。。。自分と私たちを救え。」この数節に3回も「自分を救え」とあります。でも、主イエスは、自分を救わなかったのです。なぜ、人を癒した、生き返らせた、海を沈めた主イエスは、自分を救わずに、そのまま十字架上に残ったのでしょうか?。。。私たちを救うためです。イエスは、自分を救わなかったから、私たちを救えたのです。。。キリストは、十字架上から、人々を眺めていました。イエスは、その人々のために死んでいたのです。ある人は、残酷で、ある人は、臆病者で、ある人は、あざけ笑っていました。彼らは、十字架上でイエスは、何をしているかさっぱり分かりませんでした。が、主イエスは、人類最大の愛の行為として十字架上にただただ残ったのです。。。主が十字架上で私たちの代わりに裁かれる事によって、私たちを救ったのです。イエスは、私たちが受けるべき罰を代わりに受け、神の正しい怒りの的となり、私たちの罪を赦したのです。罪と神の正しい怒りから私たちを救ったのです。そして、私たちは、神の元へと救い引き上がられました。

昔、中国で儒教の先生がクリスチャンになりました。その弟子たちが来て「先生はいつでも軽挙妄動をおさめておりながら、なんですか!あの毛唐がきて、いっぺん説教を聞いただけでクリスチャンになるなんて。それは聞こえません」と抗議を申しこみました。。。そこで先生は次のような例えをしました。「私は野原を歩いて、足を滑らせて野中の井戸に落ちてしまった。“助けてくれー”と叫んでいると、孔子が通りかかって声をかけてくれた。『お前はどうしてこんなところにいるのかね。』『野原を勝手に歩いていたもんですからおこっちたのです。』『それはいかん。ちゃんと人の通る道がある。道でないところをお前が歩いたから、こういうことになったんじゃ。以後気をつけれよ。ちゃんと人間の道をあるけよ』と教えて下さいました。けれども今、野中の井戸に落ちている私は、そんなことは千も万も承知しています。この井戸から出してくださる人が欲しいのです。。。また“助けてくれー”と叫んでいると、足音が聞こえてきた。やれやうれしやと思ってみると、お釈迦さんでした。そしてまた『どうしてお前は落ちたのか。ああかわいそうなことをしたものよ。なんでも気をつけないとこんな目にあうぞ。助けてつかわすから手を出しなさい』とおしゃいました。手をのばしたら、お釈迦さんも手をのばしてくださまたが、どうしても一尺ばかりたりながったのです。そこでお釈迦さんは『さてさてお前は業が深いのう。前世の因縁じゃ、あきらめよ』とおっしゃって、向こうへ行ってしまいました。。。だが、あきらめきれないので、“助けてくれー”と、なおも叫んでいました。すると、こんどはイエス・キリストが来ました。いやなやつが来たな、と思っていやな顔をしていたけれども、なにせ、だれでもいいから助けてむらおうと思って手をのばしたところが、どうしてもたりないのです。そうしたら、そのキリストが井戸の中にとびこんで来て、しゃがんで『私の肩にのりなさい』というから、その肩にのったら、その肩の足をサーッと押しあげて外へ出してくれた。『もう二度と来るんじゃないよ』と言ってくださいました。「だから私は、キリストを信じたんだよ。」私たちは、キリストがこの世に入って、身代わりに十字架上で死ぬ事によって、神の元へと救い引き上がられました。

私たちは、権力を重視する世の中にあります。当時も、人々は、弱さによって来る救い主イエスを理解出来なかったのです。。。でも、私たちは、弱さによって神に近よるのです。ある人は、自分の道徳や、実績や、力に頼っています。他の宗教の全ての指導者は、こう言います。「自分の力を尽くして私の教えに従ったら、あなたは救われる。」人々は、自分の為に誰かが死ぬ必要はない、と思うのです。ただの従える模範が欲しいのです。お手伝いさんが欲しいのです。自分に自信があるからです。。。心理学者は「いや、いや、いや。あなたは、そんなに悪い人じゃないよ」と励ますでしょう。聖書にこうあります。「その罪のあるあなたこそ十字架に来れます。」。。イエスは、こう言っています。「あなたは、自ら私の教えに従うのは無理。でも、あなたは、私の教えに従えないことを認め、ただ恵みによってのみ救われることを認めると、引き上げられる。」私たちは、自分の罪の認め悔い改める事と、ただ恵みによってによって近よれます。。。「負けるが勝ち」と言われて来ましたが、『私は、有罪です。私は、処罰されるべき者です。しかしながら、その刑罰は、イエスの上に落ちたのです。十字架上で、イエスが負ける事によって、勝ったのです。私が自分を救えない事を認める事によってのみ救われる。』

私たちは「和」の文化にあります。35節、一般の「民衆」、聖書をいちおう信じていた宗教の「指導者たち」、36節、外国の「兵士たち」、39節、不道徳な「犯罪人のひとり」も、皆クロン人間のようにキリストに「自分を救え」とあざけっていました。「こんな弱々しい者は、救世主ではない」と皆で決めつけているのです。間違っていても、危険でも「皆で渡れば怖くないのです。」グループ現象は、怖いし、危ないです。皆が「十字架は愚か」と言っているのです。だって、十字架は、神の聖さを前提にするし、罪を指摘します。また、どんな罪人も、恵みによって、救われるのです。不道徳な罪人も。。。「長い者に巻かれる」危険性を噛み締め、信仰者は、長いもの巻かれないのです。皆にただ合わせないのです。また、皆から変な目で見られても、自分でしっかり考えるのです。

私たちは、御利益宗教的な考えにとても影響されます。39節、 最後の犯罪人は「自分と私たちを救え」と御利益をイエスにぶつけていました。でも、心の救いよりも、体の救いを願っていたのです。神社や、お寺に行くと、家内安全、商売繁盛、合格祈願の札やお守りを買います。クリスチャンでも、信じれば必ず思う通りに癒される、いつも楽観的に生きる、全然失敗してはいけない、と思います。。。あなたもこう言った事があるでしょう。「この状況から私を救ったら、私は、あなたを信じます。私の条件を満たしたら、私は、仕えます。私は、良い人だから、神様、これを与えなさい。」全知全能の神様よりも、自分が全部を知っているかのように、神に指示するのです。救い主の「ぬし」(しゅ)を無視して、お手伝いさんやアシスタントが欲しいのです。ただ自己中心に自分の夢がかなうように。私たちは、本当にいる神よりも、自分に都合がいいような神が欲しいのです。このようにして御利益を主にして、真の神を見いだし、発見する事は出来ません。神は、全能だけではなく、全知で、知恵に満ち満ちています。神は、ベストを知っています。知恵に満ち満ちている神にお任せするのです。ご利益を求めるよりも、神御自身を求めるのです。状況を変えてもらうよりも、あなたの神観を変えなければなりません。神様に人生の幸せを願うよりも、神様御自身を慕うのです。

34節「彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」とイエスは、十字架上でいわれました。でも『私は、わかってる!』と思うのです。私たちは、十字架についての真理を知っても、その真理は、私たちを本当に変えているのでしょうか?情報を持っていますが、ピントきていますか?。。。イエス御自身とその十字架の御業を仰ぎ見、眺めなさい。キリストを信じ仰ぐあなたのために死なれたのです。あなたを赦されたのです。これが本当にピーンと来るとると、人を赦し、嫌な人でも愛し、そのために祈れる人になれるのです。『主よ、私を受け入れて下さい。私の道徳のゆえではなく、イエス様の十字架のゆえに。。。主よ、悟りが必要です。聖霊様、悟らせて下さい。』

イギリスの有名な伝道師ジョン・ウェスレーは、18世紀アメリカなどで伝道しながらも、まだイエス・キリストに真実に心から出会っていなかったのです。そして、彼は、あるイギリスのアルダーズゲート通の集会に行きました。ある兄弟は、マルテン・ルターのローマ書から読んでいました。ウェスレーは、こう書いています。「私の心は、不思議に燃えた。私は、救いのためにキリストまたキリストのみに頼ったのを感じた。キリストは、私の罪を取り除いたのです。私は、罪と死から救われた確信を与えられた。」

黒人霊歌、聖歌の400番にこうあります。「きみもそこにいたのか、主が十字架につくとき。あぁ・・なんだか心が震える、ふるえる。。。」


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