Tuesday, September 22, 2015

「主はよみがえられた!」


先ず、下の聖書のルカ24:1−12を読んで下さい。

週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。見ると、石が墓からわきにころがしてあった。入って見ると、主イエスのからだはなかった。
   そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」
   女たちはイエスのみことばを思い出した。そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このこと(2)を使徒たちに話した。ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。しかしペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。それで、この出来事に驚いて家に帰った。


私は、理屈っぽい信州人です。私たち信州人は、冬、コタツを囲んで、野沢菜をくって、お茶を飲みながら、議論するのが好きだそうです。。。私は、小さい頃からキリストについて聞いていました。8才の頃、本当にキリストを信じたと思います。が、高校3年生の頃、聖書を本気で疑いはじめました。でも、私は、神の存在を否定出来ませんでした。また「神は、世を愛された」ことを否定出来ませんでした。ならば、必ず神は、私たち人間に語って下さるでしょう、と聖書が本当に神様の言葉と確信しました。。。私は、ダラス神学校に行った頃も、また疑いました。なぜなら、聖書の知識で「頭でっかち」になっていたからです。十字架も、復活も、疑いはじめました。でも、日本人チャペルの兄弟姉妹達の愛を通して、また確信を受けました。宣教師であったと時も、疑いました。その頃、後ここでもメッセージしたデア・ハイルマン牧師が「私が疑う時、復活の歴史的事実を思い出す」と言いました。。。そうです。私たちは、それによって、聖書全ての真実さが分かります。

ある人は、キリストの復活の真実さは、そんなに大事だとは思わないのです。道徳主義者は、こう言います。「歴史的事実は、大事でない。キリストの模範が大事。」感情的な人は、こう言います。「歴史的事実は、大事でない。教会の温かい雰囲気が大事。」主観的な人は、こう言います。「歴史的な事は大事でない。私の体験が大事。」哲学的な人は「歴史的な事は大事でない。ただ良い人生観を持つのだ」と言います。宗教的な人は「歴史的な事は大事でない。『鰯の頭も信心から』でしょう。」確かに、多くの宗教にとって、歴史的事実は、大事でないのです。ただ、公子の儒教のように「良い教えさえあれば」歴史も関係無いのです。でも確かな救いもないのです。ある仏教学者は「仏教には、歴史の意識はない」と言いました。しかし、聖書によると、事実がカギです。プリンストンの元教授グレッシャム・メーチン博士は、こう言いました。「キリスト教は、哲学的な思い付きによって出来たのではありません。復活、この歴史的事実、によって、出来たのです。」

今日の箇所は、こう教えています。復活の証拠もたくさんありますが、キリストの復活の事実の確信を持つ一番いい方法は神の御言葉、聖書を通してです。神の御言葉を通してー ここでは、特に6後半—7節、神であるキリストのお言葉を通してー 復活の事実を確信出来ると教えています。

1.ルカ24:1−3、キリストの墓は、実際にカラであったことは、まぎれもない事実です。キリストの十字架の死が事実のように、カラの墓も事実です。これを疑う人は、いないはずです。

ならば、キリストの体はどうなったのでしょうか?聖書を疑う懐疑(かいぎ)論者は、こう言います。「カラの墓は、ただの伝説。本当にカラではなかった。」。。ある人は「キリストの復活は、肉体的な復活ではなく、霊的な復活。」。。さらに他の人は「体は、弟子に盗まれて、彼らが物語をでっち上げた。」。。面白い話しがあります。青森県の小さな町新郷村(しんごうむら)に“キリストの墓”という記念碑があります。今も十字架がその横に建ててあります。そこの話しでは、イエスは、実際は、エルサレムでは死なないで、日本に逃れて、後に神郷村で死んだ、とか。多分、昔、シルクロードを通して来たクリスチャンの墓がそこにあったのではないか、と思われています。新郷に、確かに不思議な名字があります。ヨハネ、与羽根、(与えるに、羽に、根っこの根)、ヤコブ、弥古部、(弥生の弥、古いに、部分の部)。実際『キリストの墓』にした本当理由は、町おこしだったそうです。

学者は、こう言っています。1)福音書にある歴史の記録によって復活の真実さが分かります。メリル・テニー博士は、こう言っています。「福音書の根本的な正しさ疑う必要はありません。福音書全体が復活について一致しています。」
2)当時、復活の生き証人もいました。その記録は、1コリント15:6です。「キリストは、500人以上の兄弟たちに同時に現れました。」。。当時、復活の真実さを聞く事が出来たのです。
3)教会が存在していることだけでも復活の証拠となります。元無心論者のF.J.フォークス・ジャクソンは、こう語りました。「キリスト者が復活を信じていなかったら、キリスト教という宗教は、存在しなかったでしょう。」
4)信じていなかった方が信じるようになりました。ルー・ワレス伯爵は、徹底的にキリスト教を破壊しようとしました。しかし、調べれば調べるほど、信じざるおえなかったのです。そして、彼は「ベンハー:キリストの物語」を書いたのです。。。オクスフォード大学のトマス・アーノルド博士は、こう書きました。「キリストが死なれ、死人の中から蘇られたほど確かな事実は、人類の歴史にはない。」

2.4−7、自身の復活についてのキリストの言葉を覚えるのです。私たちは、復活されたキリストを見たことはありません。でも、色んな証拠があります。が、一番大事な証拠は、キリスト御自身の言葉です。それによって、キリストの復活の事実性が分ります。

4−5、先ず、神の使いがキリストの復活の事実を証言しました。4節、証人が、ただ一人ではなく、二人いました。法廷では、証人が二人いたら、立証するには十分です。でも、この二人に加えて、先程言ったように、キリストの復活の証人は「500人以上」いた、とパウロが記録しました。そして、5節、この証人は、ただ者ではなかったのです。特別な存在でした。女性たちは、この偉大の存在にひざまずくくらいでした。

5−7、実は、キリストは、自分の十字架と復活をすでに予言していたのです。この使いは、復活についてのキリスト御自身の言葉を思い出させました。。。5節、このみ使いと同様に、この女性たちは、復活の証人であったはずでした。キリスト自身がそれについてすでに話したからです.しかし、理に合わない事をして、“お墓参り”をしたのです。「なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか?」御言葉を覚えていたら、変な行動です。。。そして、6節、み使いは、はっきりと『キリストは、復活された』と宣言しました。「ここにはおられません。よみがえられたのです。」で、神の使いは、キリストの言葉と預言を語ります。6後半—7節「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」前言ったイエスの復活についての予言、または言葉は、十分であったはずです。。。私たちにとっても。。。

この7節の「なければならない」は「必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえる」の全文にかかっています。「必ず罪人らの手に引き渡され〜なければならない。」「必ず十字架につけられ〜なければならない。」「必ず三日目によみがえ〜なければならない。」旧約聖書の予言通り、キリスト自身の予言通りに、’MUST’で、ならなければならない、と言っているのです。私たち人間に極めて重大な罪があるから、「必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ〜ならなければならない」のです。神が聖い聖い方ですから、誰かが贖い償わならなければならないのです。誰かが私たち人間の罪の罰を受けなければならないのです。そして、キリストは、十字架上で、私たち人間の罪の罰を受け、償い贖ったのです。。。この十字架の「なければならない」が分かると、復活のなければ「ならない」が分かるのです。栄光の主が死ぬのなら、必ず復活するのです。そして、私たちは、この十字架と復活の御言葉を信じ受け入れなければならないのです。’MUST’です。

金沢にいた頃の私の知り合いトム・ヘーステングスがこう証ししました。「私は、イエスがとても大事な人物だと思うのは問題なかった。でも、十字架の事そしてカラの墓。それは、ただ弟子たちの願いにすぎなかったでしょう。」でも、トムは、福音書を読みはじめ、まもなくキリストを信じるようになりました。。。私の昔の知り合いの安倍さんは、ダラスで仕事していました。働いていた事務所でリビングバイブルを発見しました。聖書を理解しに日本人チャペルに来ました。「このキリストは、何者だ」と質問を聞きはじめました。後、彼は、復活を学び、キリストを信じるようになりました。。。あなたは、どうですか?キリストの御言葉ー聖書ーを信じますか?

3.8−12、神の言葉の証言を通して、キリストの復活の確信を持つのです。

8節、女性は、確かに、キリストの言葉を覚えました。当時、その社会では、女性は、身分の低い者でした。が、このように、素晴しい尊敬すべき返事をしました。復活についてのキリストの言葉を受け入れたのです。。。今も、女性は、神様の事について柔軟な心を持っていますね。。。ついでに、ここにも、復活の証拠があります。女性の名前が並んでいます。ただ「女性」と書いてありません。具体的に、10節「この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも。」本当にいた女性です.本当にあった復活です。

9−11、弟子たちは、はじめは、女性の証言を聞き入れませんでした。この女性は、大事な友達でしたが、この偉そうな男性は、彼女たちのいわゆる「卑しい」言葉をうけいれませでした。。。オクスフォード大学のC.S.ルイスは、ナルニア物語の「ライオンと魔女」という小説で、この11節を例えていると私は思うのです。ルーシーという女の子は、古い屋敷のタンスを通して、ナルニアという違う次元の国に行くのです。でも、帰って来た後、その話しを年上の兄弟に言っても、信じないのです。ルーシーは、嘘をついているか、変になったか、と思うのです。兄エドモンドは「何もないでしょう!」と彼女を見下して、言いました。でも、ルーシーは、話しを変えません。「皆がどう思いってもかまわない!」同じ屋敷に教授が住んでいました。彼は、4人の話しを最後まで聞きました。そして、こう言いました。「あなたの妹の話しは、真実でないと、どう分かるの?。。。理論!どうして最近の学校で理論を教えないのか?三つの可能性しかない。あなたの妹が嘘をついているか、気が狂ったか、真実を言っているか、です。君たちは、ルーシーは、嘘をつかないと知っているし、気が狂っていないことは明らかです。それでは、今のところ、他に証拠が発見されるまでは、私たちは、彼女が真実を言っているという前提に立たなければならない。」。。弟子達は、女性の話しを聞くべきでした。キリストの言葉と行動を見ると、けして気が狂っていません.聖書を読むと真実である事が確かです。私は、神の言葉の証しを信じています。

12節、ペテロは、確かに、墓に行って、不思議に思いながら、帰って行きました。。。あなたは、この女性が信じているように、まだ信じられない可能性があります。が、他の弟子のように、愚かであってはなりません。ペテロと似たように、続けて追求しなければなりません。聖書を読まなければなりません。「このキリストは、何者なのだろうか?」と「この出来事に驚く」のです。。。子供の頃覚えていますか?世界は、不思議なものでいっぱいでした。チョウチョ、雲、アイス、金魚、風車。でも、あなたは、大人になって、いわゆる「知恵がついてきて」、心が冷えて、鈍くなって、固くなってしまいました。「だっていろいろ体験しているから」と言うのです。へ理屈をやめなさい!造り主は、真にいるのです。主は、真に私とあなたのような罪人のために死なれたのです。主は、真によみがえられたのです。「主よ、実感させて下さい!」

ある方は、こう書きました。「ソクラテスは40年教えました。プラトンは50年。アリステレスは40年。そして、イエスは、たったの3年。しかし、イエスの3年の奉仕の影響は、この方々の教えの組み合わせた130年の影響をはるかに超えている。人間が偉大と言われている全ての分野は、この謙遜のナザレのイエスによって豊かにされています。(でも)イエス・キリストの人類への特別な賜物は、魂の救いです!哲学は、それを果たす事は出来ません。芸術も。文学も。音楽も。イエス・キリストのみが私たちを縛る罪と悪魔から解き放てます。キリストのみが私たちの心に平安を語り、弱い者を強くし、霊的に死んでいる者に命を与える事が出来ます。」

信州人は、冬、コタツを囲んで、野沢菜をつまみながら、議論するような理屈っぽい民です。私もそうです。時々、私は、マルコ9:24にあるように祈らなければなりません。「信じます。不信仰な私をお助けください。」

ロバート・マックイルキンはこう言いました。「信仰は感情でも、見えるものでもない。信仰は神のみ言葉に基づいて神を捕え、神の真実をあてにすることである。」主イエスは、神の言葉通りに真に復活されました。神の御言葉ですから、信じるのです。主は、天に昇り、全てを治め、私たちのために祈り、顧みて下さっています。そして、聖霊様を通して、主は、今も、ここで私たちと共にいます。復活された主の臨在を常に信じ、意識し、復活された主の臨在を確信するのです.マタイ28:20後半「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」ここに、常に、今。

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