日本は、何でも便利です。ローソン、サークルケー、自販機、郵便、車、飛行機、携帯、パソコン、カップラーメン、レトルトカレー等等等。マクドナルド、ミスタードーナッツ、よしのや、香川県だったらウドン屋。おいしいですし、便利です。私は、マクドナルド、パソコン、飛行機、郵便ももちろん使っています。しかし、注意しなければ心や、信仰や、神様に関しても、ファストフォード的な考えに成りがちです。あまりにも大事なことで都合良いような答えを持とうとします。
教会に行って、私たちが願うように神様が答えないと、神様に怒ります。大学に入れるように、神社に行って、お金をお賽銭箱に投げ入れ、大学に合格しようとします。お寺で御利益を得ようと祈ります。私たちは、神様を’奴隷化’してしまっています。
自分のために都合良い神様がいなければ、私たちは、自分の思いで、自分の手で、かってに神を作くろうとします。パソコンでカットアンドペースト<切ってはる>するように、自分に便利なら神様を制作しようとます。また、自分にとって都合悪い神様をデリートし、削除します。
日本の神道の神々となると、互いに嫉妬し、約束破り、だまし落とし入れようとしたり、姦通し、殺し合ったりしたのです。ある学者によると神道家はこう言っています。「このように神々がわれわれと同じだから貴い(とうとい)のである。偽りも言い、盗みもし、人殺しもする。そういう神々だから、決して人に向かって、むずかしいことを要求なさらない。だから尊いのだ。」
でも、私は、私たちの都合にあわせるような神様なんか尊敬できないし、愛せなし、崇められません。聖書が示している存在する神様を敬愛します。イザヤ6:3「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」真の神様は、いわゆる『都合の悪い神様』です。私たちの都合に合わせるようなお方ではなく、私たちが神様の御意志に合わせるのです。
クリスチャンは、聖書を引用し、真実に『神は愛なり』と言います。しかし、神は、愛だけではありません。神を一元的にとってはなりません。聖なるお方です。私の父は、神の聖さと愛をコインの両面に例えました。一つのコインですが、両面があります。神は、唯一ですが、愛も、聖さも同時にあるのです。
イザヤ6:3「聖なる」は、一回だけではなく、三回も繰り返されてあります。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。」神様は、超越して聖いお方です。神様は、罪をお嫌いになる、罪を裁かれる方です。正しさを喜ぶお方です。神様は、きよいお方です。「神様の聖よさとは、神様が全ての被造物から全く独立して、はるか高くにいると言うことです。道徳的に悪と罪からも同様に離されていることを意味しています。」
この聖なる方は、私たちを創造されました。なのに、私たちは、栄光に満ちている神を無視してきました。私たち人間は、神の永遠の聖い正しい裁きに値する者です。しかし、また、神様は、愛に満ち満ちています。主イエス・キリストは、私たちのような罪人の受けるべき罰を、十字架上で身代わりと成って受けて下さいました。イエスは、神様の聖よい怒りを受けました。主イエスとその十字架を信じ仰ぐ者は、神のあわれみ、愛、恵みの対象となります。また、主イエスは、体を持ってお墓から三日目に甦り、現在全てを治めています。今、恵みをもって顧みて下さいます。
あなたは、都合に良い神ではなく、このいわゆる都合の悪い神様、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」を信じ崇めませんか?
ダビデ・ジャンカー
2007年10月3日、四国学院大学、チャペル・メッセージ
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