Wednesday, July 18, 2012

「空の空」16


「だれが知恵ある者にふさわしいだろう。だれが事物の意義を知りえよう。人の知恵は、その人の顔を輝かし、その顔の固さを和らげる。私は言う。王の命令を守れ。神の誓約があるから。王の前からあわてて退出するな。悪事に荷担するな。王は自分の望むままを何でもするから。王のことばには権威がある。だれが彼に、「あなたは何をするのですか」と言えようか。命令を守る者はわざわいを知らない。知恵ある者の心は時とさばきを知っている。すべての営みには時とさばきがある。人に降りかかるわざわいが多いからだ。何が起こるかを知っている者はいない。いつ起こるかをだれも告げることはできない。
風を支配し、風を止めることのできる人はいない。死の日も支配することはできない。この戦いから放免される者はいない。悪は悪の所有者を救いえない。私はこのすべてを見て、日の下で行われるいっさいのわざ、人が人を支配して、わざわいを与える時について、私の心を用いた。
そこで、私は見た。悪者どもが葬られて、行くのを。しかし、正しい行いの者が、聖なる方の所を去り、そうして、町で忘れられるのを。これもまた、むなしい。悪い行いに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は悪を行う思いで満ちている。罪人が、百度悪事を犯しても、長生きしている。しかし私は、神を恐れる者も、神を敬って、しあわせであることを知っている。悪者にはしあわせがない。その生涯を影のように長くすることはできない。彼らは神を敬わないからだ。
しかし、むなしいことが地上で行われている。悪者の行いに対する報いを正しい人がその身に受け、正しい人の行いに対する報いを悪者がその身に受けることがある。これもまた、むなしい、と私は言いたい。私は快楽を賛美する。日の下では、食べて、飲んで、楽しむよりほかに、人にとって良いことはない。これは、日の下で、神が人に与える一生の間に、その労苦に添えてくださるものだ。私は一心に知恵を知り、昼も夜も眠らずに、地上で行われる人の仕事を見ようとしたとき、すべては神のみわざであることがわかった。人は日の下で行われるみわざを見きわめることはできない。人は労苦して捜し求めても、見いだすことはない。知恵ある者が知っていると思っても、見きわめることはできない。」聖書・伝道者の書8:1−17


“神か御上か”どっちの側につくか?「島原の乱」を覚えると、複雑な気持ちがあります。ご存知のように大名が農民を酷く苦しめていました。そこに、幕府によって弾圧されていたキリシタンが農民と一緒に戦いました。はじめは、島原城に行き、攻めきれなく、原城に立てこもり、幕府の攻撃に耐えきれなく、老人、女性と子供が戦った者とともに皆殺しにされました。私たちは、家族として行きました。そこに多くの人が死にましたが、その遺跡に行くと『死んだ方を敬っていないなー』と感じます。現在の歴史学者と役人は、その島原の乱にたいしてどう反応したら良いのか分からないようなきがします。私も、複雑な気持ちです。やはりシンプルな答えはないのです。しかし、聖書は、政治と宗教の対立をどう教えているのでしょうか?(写:去年の秋、私たち家族が島原城と原城を見ました。上は、島原城にある天草四郎の象。)

キリスト者は、国に従うように教えられています。はっきり書いてあります。「王の命令を守れ。」聖書全体にそれが教えられています。なぜなら、王は知らない可能性があるが、王は神に誓ったからであるのです。全ての王は、良い王であれ、悪い王であれ、天地を造られた神の目に見えない支配下にあるのです。神様が許さないと王になれないのです。

また、国には、絶対的権威があると分かるからキリスト者は、王に従おうのです。こうあります。「王の前からあわてて退出するな。悪事に荷担するな。王は自分の望むままを何でもするから。王のことばには権威がある。だれが彼に、『あなたは何をするのですか』と言えようか。」現在の民主主義には、チック機能がありますが、それでも、首相、知事や警察には、一般の人よりは力があるのです。

そして、キリスト者自身の幸福に繋がるから従うのです。多くの場合「命令を守る者はわざわいを知らない。。。」例外もありますが、これは、基本です。

私たちは『もちろんアメリカの独立戦争が正しい』と言うでしょう。私も、その気持ちがわかります。しかし、愛国心の多くあった私の高校の歴史の先生は「アメリカの独立戦争は謝っていた」と言いました。なぜなら、この箇所を含めて聖書にそれが何回も書いてあるからです。聖書・1ペテロ2:13−14「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。」例外もあると思いますが、これは基本です。

しかし、国の権威にはリミットがあるのです。ここでは、自然界の例えを使っています。「風を支配し、風を止めることのできる人はいない。死の日も支配することはできない。」どんなに地震を予測しようとしても、国は、去年の9.0の地震をコントロールできませんでした。津波は、国が作った堤防をラクに超えました。コントロール出来るはずの原子力発電所は、東電だけではなく、『国』(強調)の政策と人材の弱さと限度で、多くの日本人を自分の国の中の難民にしました。長年の国の高慢と怠慢で福島県の多くの人を「災い」追いつめました。聖書の助言です。「人が人を支配して、わざわいを与える時について、私の心を用いた。」想定外の災いのために常に国は心がける、と言う事です。国は、謙虚に自分の限度を感じ、どのようにして民を助け守れる事が出来るかが主な国家の仕事です。

ドイツの牧師ディートリッヒ・ボンヘッファーは、インドのガンジーを尊敬していた平和主義者でした。第二次世界大戦でしたが、彼は、軍国主義のドイツの流れに逆らいました。それを大胆に宣言しました。残念ながらドイツ国教会も、ヒットラーに魅了され、ついて行きましたが、しかし、ボンへファーは抵抗しました。そして、更に徹底して抵抗しました。平和主義者であった牧師ボンへファーは、ヒットラー暗殺に協力し、捕まって、収容所で処刑されました。彼は人が人を支配して、わざわいを与える時について、私の心を用いた」一人の人です。彼は、早めに、鋭く、ヒットラーとナチスが民だけではなく、ユダヤ人と世界に「災いを与えていた」事を理解し、命を捧げて抵抗しました。法は、人のためにある者で、人のためにでなくなる法、人に害を与える法には従わなかったのです。国家にリミットがある、と聖書にあるのです。

キリスト者も、国も、真の神を「恐れ、敬う」のです。こうあります。「しかし私は、神を恐れる者も、神を敬って、しあわせであることを知っている。」なぜでしうか?文脈を見ると分かります。「悪者」なのに、ちゃんと「葬られて行く」のです。逆に「正しい行いの者が、(誤って)聖なる方の(教会のような)所を去り、(大事な)町で忘れ」てしまうのです。そして「悪い行いに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は悪を行う思いで満ちて」しまうのです。罪人が、百度悪事を犯しても、長生きしている」のです。世間は、狂っているのです。変です。ですから、人や状況よりも、全て国々と歴史をコントロールしている、治めている真の神を信じ敬い恐れるのです。ここに真の安心があるのです。

でも、恐れるだけではなく、神が与えた人生を喜ぶのです。「私は快楽を賛美する。日の下では、食べて、飲んで、楽しむよりほかに、人にとって良いことはない。これは、日の下で、神が人に与える一生の間に、その労苦に添えてくださるものだ。」「快楽」とありますが、英語では、”pleasure、“喜び、楽しみの事です。人生は、とても複雑だし、苦悩は確かにあまりにも多くあります。空しい事や不公平なことが起こります。知恵を追求しても限度があります。が、それでも「食べて、飲んで、楽しむ」ような博愛や恩恵を「神が人に与えた」とあります。これも、貴い恵みです。

確かに、聖書に「人よりも神に従いなさい」(使徒行伝5:29)とあります。国が「聖書と逆の事をしなさい」と言うと、国に従えない勇気が必要です。そういう時もあるのです。しかし、マルコ12:17などでイエス・キリストこう言いました。「カエザルにカエザルのもの上げなさい。神のものは神に上げなさい。」鋭いです。この世は、複雑な時があると思いますが、弁える(わきまえる)事が出来ると私は思うのです。

不思議な事は、イエス・キリストは、宗教と国家の謝った権威によって十字架上で死刑にされました。しかし、人間の間違えは、神の計画でもありました。十字架上でイエス・キリストは、私たちの罪ゆえに受けるべき永遠の罰を代わりとなって受けて下さいました。宗教と国家の間違えによって、十字架につけられたが、それは、私たちの救いでした。確かに、この「知恵は、その人の顔を輝かし、その顔の固さを和らげる。」

“神か御上か”どっちの側につくか?。。。十字架の救いの力があって、真の神の助けによって、“御上”に従い、その“御上”を助ける事が出来るのです。それは、助言する事によってだけではなく、必要でしたら、抵抗する事によって、“御上”が助けるべき民を助けるのです。

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