「光は快い。太陽を見ることは目のために良い。人は長年生きて、ずっと楽しむがよい。だが、やみの日も数多くあることを忘れてはならない。すべて起こることはみな、むなしい。若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。だから、あなたの心から悲しみを除き、あなたの肉体から痛みを取り去れ。若さも、青春も、むなしいからだ。
あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう前に。その日には、家を守る者は震え、力のある男たちは身をかがめ、粉ひき女たちは少なくなって仕事をやめ、窓からながめている女の目は暗くなる。通りのとびらは閉ざされ臼をひく音も低くなり、人は鳥の声に起き上がり、歌を歌う娘たちはみなうなだれる。彼らはまた高い所を恐れ、道でおびえる。アーモンドの花は咲き、いなごはのろのろ歩き、ふうちょうぼくは花を開く。だが、人は永遠の家へと歩いて行き、嘆く者たちが通りを歩き回る。こうしてついに、銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ、水がめは泉のかたわらで砕かれ、滑車が井戸のそばでこわされる。ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。空の空。伝道者は言う。すべては空。」伝道者の書11:7−12:8
人生の空しさは、普通、主に、人生を長く経験した人に理解出来るのです。いろいろ体験し、自分を含める人間の頼りなさ実感し、快楽のリミットを実感し、人生に与える仕事の喜びの限度を実感するのです。でも、ソロモン王は、聖書は『人生の空しさを早いうちに学べ』と言っているのです。こう書いてあります。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」神は、神抜きの人生の空しさと神あり人生の尊さを喜んで欲しいのです。早いうちに。若者に2つのことを覚えて欲しいのです。先ず、若い時に人生を喜ぶこと。次に、若い時に神を覚え知ること。
先ず、若い時に人生を喜ぶ楽しむこと。
「光」を「喜べ」と言っています。「我れら十三才の時のまたあるべきか。」徳川頼宣 神の与えた『善は急げ』なのです。なぜなら、目が見えない、年老いた「暗闇」日が来るからです。ですから、「あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。」若いうちに人生観を確立し、世界観を描いておくことです。神を知る者は、人生を楽しんで良いのです。キリスト教は、修行や禁欲主義ではないのです。全て神が与えたものを喜ぶのです。「大きく神の御意の太陽の光に身を投ぜよ」と小畑進牧師は説得しています。
でも、そのバランスは「しかし」という言葉で分かります。楽しむが良いが、それと同時に、神が見ていて「その心のおもむくまま、あなたの目の望むまま」は、“神を忘れてするな”と言っているのです。次の節は、こう書いてあります。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」
次に、若い時に神を覚え知ること。
私は、何回も四国学院大学のチャペルタイムでメッセージしたことがありますが、その校門脇の立派な岩に、この言葉が彫り刻まれていて人目をひきます。「汝の若き日に汝のを創造者をえよ。」「空の空」をテーマしてある伝道者の書は、この希望と期待の言葉の結論の言葉で終わっています。「人生をほとんど使いはたして、残り少くなってからではなく、喜びも苦しみも豊かな若い日のうちに!」と天に召された小畑進む牧師が書いています。
なぜ「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」と言っているのでしょうか?なぜなら、年老いてくると「わざわいの日」が来るのです。また「『何の喜びもない』と言う年月が近づく」のです。この箇所で「わざわいの日」を比喩的に例えます。ここから、年老いてくると肉体的な精神的な衰退を描きます。
「太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲」は、死を例えているのです。暗闇は、死を意味します。死が一番「わざわいの日」です。
「家を守る者」は、腕と手のことです。それは「震え」るのです。これも「わざわい」です。前のように自分をケア出来ないので、恵まれた人は、家族によって帰されたり、ホームヘルパーが来てもらえます。が、家族を離れたホームでケアされるのは、寂しいです。
「力のある男たち」は、多分足のことです。足は「身をかがめ」るのです。曲がったり、弱くなったりします。人に助けてもらったり、杖をつかなえればならないのです。転んだりして、骨も折れます。「わざわいの日」です。
「粉ひき女たち」は歯を意味します。歯が抜けて「少なくなって」、噛み、ひきこなす「仕事をやめ」るのです。今は、入れ歯がありますが、ソロモンの頃の昔の人は、食べにくかったでしょう。「わざわい!」
「通りのとびら」は目のことで、その目は「閉ざされ」見えなくなったりします。大好きな本が読めなくなるのです。「目はかすみ耳は蝉なく歯は落る、降らねど積るの雪」仙崖
「人は鳥の声に起き上が」ることは、朝早い鳥の音で、朝早く起きてしまう老人の習慣です。「えっ何て言うた。。。えっ、えっ」と聞きかえして、残念ながら嫌われるのです。私は、まだ55才ですが、もうすでに4時頃、5時頃起きます。鳥の音がなくっても。
「臼をひく音も低くなる」ことは、食欲が減ったり、食べることが少なくなることを耳しています。若い頃は、信じられないほど食べるが、今は「腹八分」ではなく、「腹五分」いや、それ以下かもしれません。
「歌を歌う娘たち」は、多分耳のことです。聞こえなくなることです。どんどん耳が遠くなりますね。老いると、声がしわがれて卑しいダミ声になるのです。
確かに年老いた方は「また高い所を恐れ」るのです。80歳の登山家三浦雄一郎のような老人は、珍しいです。高い所だけではなく、身近な所にある「道でおびえる」のです。ちょっとした石ころにも蹴つまずくから、道を行くにもおびえてしまうのです。
「アーモンドの花」は咲く時、白っぽいです。これは、白髪のことを言っています。私のヒゲがもうすでに白いです。「皺(しわ)がよる、ほくろが出来る、腰曲る、頭ははげる、白うなる。」仙崖
「いなご」は、体が曲がっていることを表し、確かに年老いた方はゆっくり歩きます。まだ香川県の高瀬町にいた頃、前川さんのおばあちゃんの背中は、完全に曲がっていました。田んぼと畑をやっていたからでしょうか?
「ふうちょうぼくは花を開く」は、どういうことでしょうか?ふうちょうぼくは地中海産の木です。食欲や性欲増強剤のもとになるというので、活力が失せることです。日本でスッポンの役割をするのでしょうか?性欲が少なくなることです。
「銀のひもは切れ」ることは、また死を意味しています。「金の器は打ち砕かれる、水がめは泉のかたわらで砕かれる、滑車が井戸のそばでこわされる」こともそうです。老いるときは、死ぬときだ、と繰り返し、強調しています。「人は永遠の家へと歩いて行く」のです。体の「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る」のです。人は、皆死ぬのです。。。私は、7年間、香川県の高瀬町に住んでいましたが、私たちの北原に毎年数回もお葬式がありました。老人が多かったのです。命と魂の尊さについて考えさせられました。。。でも「あの世」に行く前に、いや「若い日に創造者を覚えよ」です。
ある牧師は、背中を丸めていたおじいさんとおばさんに声をかけました。キップを買って電車に乗るところでした。おじいさんはほとんど黙りこくっていましたが、おばあさんのほうは親切でしたが、がキリスト教会に通っていることを覚えて「ええな、いまどき若いもんくせぇして。」おばあさんの耳が遠いので、牧師は大声で「おばあさんも教会へいらっしゃい。」すると「いやな、足が言うこときかんでなぁ」と言われました。「そんなら、これを読んでください。」と聖書の小冊子差し出すと、「いや、いや目がかすんでな。こまこい字なぞ到底読めんですわ。」それなら、牧師は読みはじめました。「よう聞こえんわさ。」そこで大声で、「これなら聞こえますか」と聞いたら、「聞こえることは聞こえるけんど。もうアタマのほうが老いぼれてあかん。新しいことはわかろうとは思えんわ。」 「あんたの熱心、親切はよーくわかるけど、この年令になって新しい筋道はようわからん。わしら、これでいいのや。このままジジババ二人暮らしで死にますんや。ほんにありがとうさん。」。。。その頃からー年たったら、その牧師が訪ねてみたら、洪水で駅のあたりは押し流されて一変していました。ジジ、ババの家もありませんでした。。。若い日に伝えたら、若い日に造り主とイエス・キリストの尊い福音を覚えてくれたら。。。
どうして「若い日に。。。創造者を覚え」るのですか?死でさえ「空の空」だからです。死を含める「すべては空」だからです。行きている間神抜きで過ごすことは、空しいですが、それ以上に、神抜きで死ぬとより空しいです。ですから、若いうちに、人生に意義を与える創造主に出会うのです。彼が人生に真の喜びを下さいます。小畑進牧師は、こう言っています。「若い日からタップリと創造主のたなごころで、苦楽、悲喜ともに充実した人生を、との勧めでした。
「あなたの若い日に創造者を覚えよ」は、やはり、十字架の愛を覚えさせておきたいのです。造り主は、活きる意義を下さいます。でも、造り主がこの世に来て、その活きる意味を勝ち取って下さいました。私たちの空しさと死と引き換えに、御自身の意義と命を私たちに下さいました。私たちの死ぬべき死を代わりとなって死なれたのは、あの主イエス・キリストです。十字架の恵みを覚えて、信じて、仰いで、この意義と豊かな命を無償で頂けるのです。誰でもですが、特に、若い時に神を覚え知ることによって、真に人生を喜び楽しめるのです。