ブレーズ・パスカルが書いた本「パンセ」は『考えごと』という意味で、その内容は、キリスト教の真実さを証明するものでした。私は、皆さんに、神、聖書、イエス・キリストや人生について共に考えてほしいです。"都合悪い"ことも考えたいです。
Sunday, December 24, 2017
サンタは本当?
「サンタクロースは、本当の歴史にいた人物でした。最近、南トルコの辺りに、本当のサンタの墓が見つかったのです。西暦343頃、天に召されたのです。実名は、聖ニコラウスで、墓は、教会の下でした。彼は、多くの遺産を貧しい人や病人に与えたのです。子供が好きで、多くのプレゼントを密かに上げました。後、寛大な人として有名になりました。」
もっと読む:「クリスマスの意義」
聞く:松本豊かな命教会 (Matsumoto Abundant Life Church) Live Stream - YouTube
聖書・2コリント9:15「ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。」
Monday, December 18, 2017
Wednesday, December 13, 2017
聖書・ガラテヤ2:10「貧しい人を顧みるように」
世界で最も恵まれている国の一つは、日本です。… でも、厚生労働省の2016年国民生活調査によると「日本全体でも子どもたちの7人に1人が『貧困』。
ひとり親家庭では、2人に1人に及ぶ。」格差が進んでいる中で、この課題が増えると思います。何回も、私たちの教会にホームレスの方が来て、お金をお願いしました。アメリカなどでは、教会関係の慈善団体のミッションが多くあります。日本の都会には、救世軍などがあります。。。私たちは、どう応えれば良いでしょうか?先ず、心構えです。『主の恵みを受けた人は、恵みを表すのです。』ガラテヤ書のポイントは、キリストの恵みです。恵まれた人は、物質的に恵まれてない人に恵みを示すのは当然です。
あるアメリカの教会の長老が道で物乞いをしていた方をバカにしていました。私は、驚きました。教会のリーだが!?時々『強いものが生き残る』という進化論的な考え方がクリスチャンの心の中にも入って来て、「彼が頑張らないから、そうなるのだ」と思ってしまうのです。。。13年ほど前、私たちダビデ家は、アメリカに行って時、仕事がなかなか見つからたなかったのです。メディケア(国の医療的援助)を受けなければ成らないほどでした。辛かったです。。。でも、また、私たちの子供が病気に成った時、一番助けた方は、退職したギブソン医師でした。子供をチックし、処方箋なで書いて下さいました。彼の奥さんは、奈帆をコストコに連れて行って下さって、買い物を全て払って下さいました。イエスの恵みを体験した2人は、恵みを表したのです。
1.ガラテヤ2:10の文脈、恵みの共同体ですから、「貧しい人を顧みる」のです。教会は、個人主義ではないです。確かに、ガラテヤ1章後半、パウロは、個人的に直接神の啓示を受けました。でも、パウロは『My Way』ではなかったです。個人も大事ですが、共同体も大事です。ですから、2章前半、パウロは、エルサレムに行き、使徒達に受け入れられました。エルサレムの教会の主なリーダーは、7節後半「理解してくれました。」両者の任務に違いがありながらも、キリストにあって一つであったのです。9節「そして、私に与えられたこの恵みを認め、。。。右手を差し伸べました。」神さまとの縦の関係も大事ですし、横の人との関係も大事です。両方、個人も、教会も、大切なのです。。。そして、10節、横の関係の中の大事な一つとして「貧しい人も大事にしなさい。国境と人種を超えて、大事にし、施しなさい」と言っているのです。
2.(10節)恵みが優先順位ですから、「貧しい人を顧みる」のです。ここの「貧しい人たち」は、主にユダヤ系クリスチャンでした。1世紀のユダヤにいた貧しいキリスト者は、飢餓、迫害、反乱と戦争を体験していたのです。イスラエルは、もともと貧しい地域だったのです。人口が多すぎたのです。巡礼者でいっぱいでした。1000年以上、畑のために、森を伐採していました。石が多く、土が良くなかったそうです。ニーズは、大きかったのです。。。7節、ペテロは、両方のゴールには、違いがありながらも、一致して欲しいことがあったのです。それは、先ず、福音でした。でも、それだけではなく、「貧しい人たちをいつも顧みる」ことでした。。。「いつも」は、常ある教会の志しを示しています。優先順位です。。。パウロ自身も、これをただ心の隅に置いていたのではなく、10節後半「大いに努めて来たところ」だったのです。口先で言ったのではなく、聖書を読むと、パウロは、実践した記録が多くあります。
マルテン・ルターはこう言いました。「福音を告げる後に、真実な忠実な牧師の任務と責任は、貧しい方を心に留めることです。」小岩井牧師は「3・11」の後、何回も、釜石に行きました。でも「先生、この教会をケアして欲しい」と疑問を投げかけられたことはなかったでしょうか?でも、キリストの恵みを頂いた人は、その恵みを与えるのです。母は「部落民問題」の集いで話したことを覚えています。父は、有明高原寮や松本少年刑務所で聖書の話しをしました。小岩井先生は、今も行っています。先生は「虹の村」で福音をシェアしています。
3.聖書全体がこの恵みを教えているから、「貧しい人を顧みる」のです。9節、教会のリーダーの「ヤコブ」は、ヤコブ書を書いた使徒でした。そのヤコブ書に『必要のある人を助けること』を強く促していました。。。こないだ神田英輔先生がこう言っていました。旧約聖書のイスラエル人は「けして畑を隅々まで、刈り入れてはならない。貧しい人々が拾えるように置いて行きなさい」と命じられました。。。申命記15:7−8「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みのうちででも、あなたの兄弟のひとりが、もし貧しかったなら、その貧しい兄弟に対して、あなたの心を閉じてはならない。また手を閉じてはならない。進んであなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。」。。詩篇41:1「幸いなことよ。弱っている貧しい者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。」。。このガラテヤ6:10「ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。」他もいっぱいあります。キリストを救い主を、恵みによって、信じている全ての者は、生活の困難の人を助ける義務と責任があります。教会が必要のある人が助けを得られるような集いにするのです。
4.エペソ2:1−10、恵みですから、値しなくても、「貧しい人を顧みる」のです。貧しい人に与えることは、神を真似ることでもあるのです。造り主は、「驚くばかり恵み」を私たちのような値しない人に無償で与えています。それと似て、例えば、その人は、それに値しなくても、私たちの献金と行いが物質的に恵まれてない人々に与えるのです。エペソ2:3「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(4節)しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、…(6節) キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」。。ロバート・マリー・マックシェーン牧師は、こう書きました。「愛するクリスチャンよ、あなたがたは、夜も昼も真の葡萄の木(キリスト)の枝になれるように祈ります。あなたがたは、キリストのかたちに造り変えられるように祈ります。ならば、キリストのように施しをするべきです。「キリストは、富んでいたのに、あなたがたのために貧しくなられました。」(ある方は、こう反対するでしょう。)反対第1、「私のお金は自分のもの。」応え:キリストは『私の血は私のものだ。私の命は私のものだ』と言えた可能性があります。だったら、私たちは、どうなったいたでしょうか?反対第2、「貧しい人は値しない。」答え:キリストは『彼らは、罪深い者で、こんな人のために命を与えましょうか?良い天使に与えましょう。』しかし、そうしませんでした。100匹をおいて、失われた1匹を見つけました。値しない者のために血潮を与えました。反対3、「貧しい人は、それを悪用します。」答え:キリストは、同じことを言えたでしょう。さらにより的確に。キリストは、多くの人が御自身の血を踏みにじることを知っていました。ほとんどがそれを軽蔑することを。その血によった罪を犯す言い訳にすることを。(恵みだから好きしても良い)それでも、血潮を流されたのです。ああ、私の愛するクリスチャン、キリストのように成るのなら多く与えなさい、常に与えなさい、自由に与えなさい、罪深い貧しい人たちに、感謝しない、値しない人たちに。。。キリストは、栄光に満ち、幸せです。私は、お金を願っているのではなく、あなたの幸せです。キリスト御自身の言葉を覚えなさい。『受けるよりも、与えることが幸いである。』」。。恵まれたものは、恵みを示すのです。当然です。
5.2コリント8:9、恵みを原動力にして、「貧しい人を顧みる」のです。豊かな命キリスト教会は、毎年のクリスマス、協立病院でクリスマス会を行います。でも、共立病院で、常に月4回ほど、貧しい子供達の塾を行っています。年に数回、炊き出しを行っていまです。常に手を差し伸べることも必要です。… でも先に、心が大事です。『主の恵みを受けた人は、恵みを表すのです。』ガラテヤ書のポイントは、キリストの恵みです。恵まれているから、感謝しているから、物質的に恵まれてない人に恵みを示すのです。… でなければ、あなたは、くたびれます。自分の慈善は、あまりにも足りないこと、慈善の動機が全くずれていることを感じ、自分を責めはじめます。他の人を愛する事によって、神の愛を受けようとするのです。… でも、キリストの愛に感動して、いわゆる『溢れたコップ』(英”overflowing
cup”)でするのです。2コリント8:9「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」この恵みに感動して、恵みを示すのです。
私たちは、福音をけして妥協してはなりません。『救われて成長するためには、良い行いではなく、ただ恵みによるのです。』しかし、キリストの恵みを受ける人は、恵みを与えるのです。。。ある教会は、慈善を強調し、教義をないがしろにします。彼らはこう言います。「真理や教義は、分からないし、堅い。ただ、慈善活動しましょう。」他の教会は、教義を強調し、「これが真理」と断言し、伝道し、メッセージもしっかりします。慈善をないがしろにします。でも、真実な愛を根拠にすると、犠牲的な慈善活動できます。十字架の慈愛の神の栄光を表し、伝道にもなります。
誤解しないで下さい。「貧しい人を顧みる」ことによって、キリスト者に成るのではありません。ただ恵みです。逆に自分の「心の貧しさ」を知って、キリスト者になるのです。1741年、アメリカ、コネチカット州の無学のネーセン・コールは、伝道師ジョージ・ウィットフィルドのメッセージを聞きに行きました。これが彼の証しです。「彼のメッセージを聞いて、(罪が指摘され)心に傷が出来た。また、神の祝福によって私の古い土台は、壊された。そして、自分の行いが自分を救えないことが分かった。」人は、なんだかの道徳を神に差し上げたいのです。でも、神に来る時、何も手に持って来れないのです。何も。それは、私たちにとって無理なことです。「心の貧しい者」ですから。手ぶらで神の前に来るのです。手に何かがあれば、ただ私たちの罪です。詩人はこう書きました。「私の手には何も(キリストに)持って行きません。ただあなたの十字架にすがります。」… 聖書の理論は、次です。主イエスが十字架上で全てを捧げられたのです。キリストが全てを捧げたことを理解すると、こう言いはじめます。「私は、キリストの犠牲によって生きている。生かされている。それで、私は、『貧しい人を顧みる』、その方々に仕える、必要を与えるのです。」… 彼らがあなたによって生きるのです。
キリストの十字架の愛を仰ぐと、貧しい人を全く違う目で見て、「貧しい人を顧みる」ことが出来るようになるのです。キリストの十字架の愛は、ただの気持ちではないのです。犠牲的な行為です。福音を語る教会は、「貧しい人を顧みる」のです。。。西暦後360年頃、クリスチャンでなかったローマの皇帝ジュリアンは、クリスチャンについてこう言ったそうです。「クリスチャンは、見知らぬ人に対する慈善を通して彼らの(愛の)目的を最も促進させているのが見えるでしょう。クリスチャンは、自分の貧しい人だけではなく、私たちのも支えるのは、私たちにとって恥であります。私たちは、自分の者も顧みないのです。」… 当時、全ての町に教会のリーダーがいました。そして、クリスチャンが皆のケアをしていました。ですから、リーダーは、町の全てのことに関して語られるような尊敬を受けていたのです。ノンクリスチャンにとっても、地元の政治家よりも、教会がリーダーとして認められていました。なぜでしょうか?聖書を語っただけではなく、慈善をも行っていたからです。
慈善も大事です。恵まれた者は、恵みを与えるのです。安曇野ファミリーチャペルで、神田英輔先生を呼んで「世界食料デー」が行われました。不思議に、美味しいパンを食べたりするのです。「世界が飢えているのに、どうしてパンを食べるのでしょうか?」と疑問に思いました。でも、けして罪悪感やプレッシャーによって、寄付したり、善を行ったりするのではなく、恵みによってするのです。私たちは、パンによって、恵まれているだけではなく、キリストの愛によって、恵まれています。ですから、与えるのです。
1835年12月17日、イギリス・ブリストルで、孤児院で有名であったジョージ・ミュラーは、このような話しをしました。ある貧しい女性の£100の寄付を断ったのです。ミュラーは、その女性が貧しすぎたと思ったからです。彼女の体は、弱くて、一週間の給与は、たったの$1.00でした。でも、大胆な信仰を持って彼女は、こう言いました。「しかし、主イエスは、血潮の最後の一滴までを私に与えました。ならば、私は、この£100を主に捧げられないでしょうか?」この十字架の恵みが「貧しい人を顧みる」根拠と原動力です。
Sunday, December 3, 2017
クリスマス
12月24日(日)
クリスマス礼拝 10:30〜
ミッセージ「クリスマスの意義」聖書・ガラテヤ5:4−5「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者となさいました。。。私たちが子としての身分を受けるようになるためです。」
クリスマス祝会 12:30〜
ランチ+
・入場無料・
どなでもどうそお気軽においで下さい。心よりお待ちしています。
松本市出川2−22−14
TEL 0263−28−9836
Sunday, November 26, 2017
Sunday, November 19, 2017
「心の貧しい者」
「彼のメッセージを聞いて、心に傷が出来た。また、神の祝福によって私の古い土台は、壊された。そして、自分の行いが自分を救えないことが分かった。」
人は、なんだかの道徳を神に差し上げたいのです。でも、神に来る時、何も手に持って来れないのです。何も。それは、私たちにとって無理なことです。「心の貧しい者」ですから。手ぶらで神の前に来るのです。手に何かがあれば、ただ私たちの罪です。「私の手に何も持って行きません。ただあなたの十字架にすがります」と詩人は書きました。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」イエス・キリスト、聖書・マタイ5:3
Tuesday, November 14, 2017
Sunday, November 5, 2017
Wednesday, November 1, 2017
『さわらぬかみにたたりなし』
「聖書は罪の本質を、神ヘの反逆である、としています(出エジプト記20:3、4*)。現代、私たちの大部分は、神を信じようが信じまいが人間の勝手であり、罪ではないと考えています。ですから、『さわらぬかみにたたりなし』と、神に対して無関心、そして自分勝手に生きるのです。ところが、これこそ実に神に対する反逆なのです。。。人間の罪の根本を考えてごらんなさい。
(出エジプト記20章前半の十戒を読んで下さい。)
殺人 — 人生の生命の神聖さに対する無関心と反逆。
盗み — 人の所有権の神聖さに対する無関心と反逆。
姦淫 — 愛の神聖さに対する無関心と反逆。
偽まん — 真理の神聖さに対する無関心と反逆。
貪欲 — 人の権利の神聖さに対する無関心と反逆。
これこそあなたとその他のすべてのものを造り、愛しておられる神に対する無関心であり、反逆なのです。夫に対して愛がなく無関心な妻は、他の全ての点で満点であっても、彼女は背ける妻です。それて同じように、神を神としない人は、他のどの点がりっぱであっても、そむける罪人、神の怒りに値する人間なのです。」羽鳥明
*聖書・出エジプト記20:3−4「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。」
Thursday, October 19, 2017
釘
英訳 ”We all carry about in our pockets His very nails.” Martin Luther
ということは、私たち一人一人の自己中心などの罪がイエス・キリストを十字架につけたのです。
左写真は、映画『パッション』の一場面です。監督メル・ギブソンが自分の手で釘を持って、キリストに打ち込んでいます。彼は、自分の罪がキリストを十字架につけたのである、と証ししているのです。
また、聖書のルカ23:34でこうあります。十字架にかけられたイエスは「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているか分からないのです」と叫びました。
自分の罪を認め、イエスとその十字架を信じ受け入れる者は、罪が赦され、神の絶大な愛の対象となるのです。十字架の愛によって変えられます。
主イエス・キリストとその救いを体験して下さい。
Wednesday, October 11, 2017
「ダンケルクの奇跡」
1940年の5月、ヨーロッパの第二次世界大戦のはじめの頃です。ナチスは、すごい勢いで、西のフランスやベルギーのほうに攻めて行きました。ダンケルクという町を囲みました。フランス軍やイギリス軍を絶滅に追い込むことは出来たのです。でも、不思議に将軍達に反対し、ヒットラーが前進を止めたのです。
英国首相ウィンストン・チャチルは、イギリス本土への撤退を命じました。でも、せいぜい300,000人の中から20,000人が逃れると思いました。脱出の為に多くの大きな船から小さな船まで国民にお願いしました。渡った時、ドーバー海峡は、不思議に静けさがありました。
不思議に、ちょうどそのころ大陸のほうでは、嵐があって、ナチスの飛行機は、飛べなかったのです。後、ダンケルクの港や砂浜を攻撃しました。撃たれそうになった時も、イギリス軍の負傷者は、比較的に少なかったのです。結果的に、フランス軍人を含めて、335,000人の兵士が再び戦えるように無事英国に帰りました。
これは「ダンケルクの奇跡」とも言われています。なぜこのようなことが起こったのでしょうか?英国の方は「神に祈ったから」と言いました。
イギリスの国王ジョージ4世は、敬虔なクリスチャンだったそうです。彼は、日曜日の5月26日を「国の祈りの日」(National Day of Prayer)にするように命じました。全国民が教会に行って祈ったのです。国王は、ロンドンのウェストミンスター・アビ教会で礼拝しました。。。そして、この祈りは、聞かれたのです。
イギリスの国王ジョージ4世は、敬虔なクリスチャンだったそうです。彼は、日曜日の5月26日を「国の祈りの日」(National Day of Prayer)にするように命じました。全国民が教会に行って祈ったのです。国王は、ロンドンのウェストミンスター・アビ教会で礼拝しました。。。そして、この祈りは、聞かれたのです。
「ダンケルクの奇跡」の次の日曜日、6月6日(日)「感謝の日」を持ちました。それで、会衆と聖歌隊は、次の詩篇124編を歌ったのです。後半を読んで下さい。
ほむべきかな。主。
主は私たちを彼らの歯のえじきにされなかった。
主は私たちを彼らの歯のえじきにされなかった。
私たちは仕掛けられたわなから鳥のように助け出された。
わなは破られ、私たちは助け出された。
私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。
Sunday, October 1, 2017
「すべての人は、罪を犯したので….」
ある時、一人の泥棒が捕えられ、王の前に引き出されて死刑の宣告を受けた。すると彼はふところから一枚の金貨を取り出し、「王様、実はこの金貨は、一度も悪いことをしたことのない人が土に埋めると、金のなる木がはえるのです。ところが、ところが、私は悪いことばかりして、とうとう植えることができませんでした。王様なら罪はないでしょう。これを一つお植えになって見て下さい。」
王は身震いをはじめた。そしてすぐ総理大臣を呼んで命じた。「お前は本当に忠義な部下だ。お前が植えるのがよかろう。わしは今まで、殺さなくてもよい人を殺したり、取らなくてもよい国を取ったり、考えてみれば悪いことばかりしてきた。」「ちょっと王様、お待ち下さい。私もあなたと一緒になって同じようなことをして来ました。また、数多くの人々から税金を余分に取りたてていました。私もだめなのです。」
次の呼ばれたのは警視総監であった。「お前は人をさばく役柄、まちがいなかろう。うえてくれないか。」「おゆるしゅください。私も人をいじめたり、不正なさばきをいたしました。ゼウスの神主なら神に使えているから、間違いないでしょう。」
ゼウスの宮の神主が呼ばれて来た。彼も王の前に出ると青い顔をして、おそるおそるいった。「私はよく採金をごまかしたのです。」
その話しを一部始終なわにくくられたまま聞いていたかの泥棒は、大笑いしていった。「みなさん、私と一緒に死刑になったらどうでしょう。」
「多かれ、少なかれ、私たちは皆、罪を犯して来た。」ルキウス・アンナエウス・セネカ
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」聖書・ローマ3:23−24
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」聖書・ローマ3:23−24
Tuesday, September 26, 2017
Monday, September 18, 2017
『疲れしわが友、我にきたれ』
行けどゆけども
ただ砂原、
道なきところを
ひとり辿(たど)る。
ささやくごとくに
み声きこゆ、
「疲れしわが友、我にきたれ」
やけたる砂原
いたむ裸足、
乾きのきわみに
絶ゆるいのち、
しずかにやさしき
み声きこゆ、
「いのちの泉に、来たりて飲め」
かえるに家なく
疲れはてて、
望みもなき身は
死をぞねがう。
さやかに力の
み声きこゆ、
「帰れや、父なる、神のもとに。」
聖書・マタイ11:28「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」イエス・キリスト
Wednesday, September 13, 2017
「人がその友のためにいのちを捨てる。。。」
オンラインABCNewsによると、9月9日(土)ワイオミング、ミシガンのお母さん、ケアリー・デクラインは、お腹にいる赤ちゃんを守るために、ガンの治療のケモセラビー(化学治療法)を拒み、天に召されました。Woman who chose baby instead of chemotherapy has died -
ABC News 中絶を拒み、赤ちゃんを生かしたかったのです。深い信念のある勇敢な犠牲です。
ご主人は、こう言いました。「痛いです。が、これは、彼女の願っていたことです。この子を守りたかったのです。私の家内は、何よりも、主(イエス・キリスト)を愛し、彼女の子供達を愛していました。」
Facebookに聖書のヨハン15:13がのっていました。ヨハネ15:13「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」キリストの身代わりの十字架を思い出します。十字架の意味:ヨハネ3:16
マザー・テレサは、妊娠中絶についてこう言いました。「私たちは、殺人、虐殺、戦争、憎しみについて聞く時、驚いては成りません。お母さんが自分の子供を殺せるなら、私たちが互いに殺す意外の道はあるでしょうか?」私たちの間にいる一番弱い者を守らなければ、他はどうなるのですか?このお母さんのように、妊娠中絶をも止めることです。(アメリカだったら、銃規制をすることです。)これは、極端ではなく、基本です。一番優れた社会は、一番弱い者を大切にするのです。いわゆる「胎児」(お腹にいる赤ちゃん)、老人、障害者などを大切にするのです。進化論が教える「弱い者がなくなり、強い者が生き残る」世界観ではなく、「強い人」は「弱い人」を救い守るのです。
天に召された
ケアリーの家族のために祈りましょう。子供を育てるお父さんや、悲しみにある家族のために。
Tuesday, September 5, 2017
Tuesday, August 29, 2017
「世間の目を気にする」
「人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は守られる*。」聖書・箴言29:25
「世間の目を気にする」と言います。あまりにも、人を恐れて、動いたり、動けなかったりします。この聖書の箇所によると、その人は、罠にかかっているのです。身動き出来なくなり、真実なことや、キリストの愛によって行動できません。ある人は、人を気にして、教会にも行けません。「しかし」は、大事な接続詞です。開放される道があります。「主に信頼する」と「守られる」のです。ですから、人に束縛さらずに、自由に動けます。真実と愛を実践出来るはずです。いや、イエス・キリストの尊い恵と自由を味わうと、出来ます。
*「守られる」は、高い、悪の手の届かない安全なところにある、という意味。
Sunday, August 20, 2017
介護とプロ野球
「介護はプロ野球のようにスポットライトは当たらない。プロ野球など足元にも及ばないほど社会に貢献する仕事です。」元読売巨人*、現在東京基督教大学の教授中澤秀一は、さらにこう言っています。「介護は人間にとっていちばん大切な人と人との深い関わりができる仕事です。」
彼は、1978年、巨人にドラフト外で入団しました。しかし、3年で、夢は、途絶えました。後、介護福祉の世界に入りました。イエス・キリストに対する信仰をこう語っています。「どうせ信じるなら神さまは一つだというキリスト教でもいいか、という軽い気持ちで洗礼を受けてしまったのです。。。そんないいかげんな信仰しか持っていなかった自分を、神さまは正しい方向へ導いてくれた。。。『私を大学の教授にして下さい』と無謀な祈りをした。。。その祈りが現実のものとなっているのを知ったとき、神さまへの畏れを感じた。『こんないい加減な信仰、無謀な祈りにも神さまは応えて下さる。神さまを裏切るようなことはしてはいけないと思うようになりました。』」
「このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」使徒パウロ、聖書・使徒の働き20:35
クリスチャン新聞より:元プロ野球選手のオンライン
* 注意:私は、30年以上前からカープファンです。
Sunday, August 13, 2017
『人よ。汝自身を知れ』
「人はみずからの造り主を知るまでは、みずからを知りうるとは、はなはだ疑問なのだ。」チャールズ・スポルジョン
引用の全部「われらの礼拝は知的でなければならない。われわれはその拝するお方が、いかなるお方であるかを知り、また、なにゆえに拝すべきかを知っていなければならない。『人よ。汝(なんじ)自身を知れ』とは賢者の警句であったが、実は、われらの神を知ることこそ、それより真実の知恵なのだ。人はみずからの造り主を知るまでは、みずからを知りうるとは、はなはだ疑問なのだ。」
「知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。」聖書・詩篇100:3
Sunday, August 6, 2017
Sunday, July 30, 2017
「さあ、主に向かって、喜び歌おう。。。」
昨日、豊かな命キリスト教会で詩編95編から「礼拝とは何?」について語りました。
どうしてクリスチャンは、賛美歌や聖歌を礼拝の大事な部分にするのでしょうか?私は、上のメッセージにこの例えを使いました。
奈帆の結婚指輪の為に私の母は、母のお母さん、私のおばあちゃんの結婚指輪を下さいました。例えば、奈帆と私が『鑑定してもらいましょう』と言います。宝石屋さんは、初めは、ただ眼鏡を入れて、ただ見ます。でも、不思議に少し時間がかかるのです。彼は、眼鏡を落とし、裏にある本を調べはじめます。そして、息が荒く成りはじめます。初めは、冷静に調べていました。でも、今は、感動しているのです。そして、こう言います。「これは、何々のダイヤで、この金は、何何です。」奈帆と私も感動しているのです。喜ぶ、叫ぶのです。
神を、その恵みを、さらに知り、体験すると、心が動き、讚美せざる終えないのです。
ですから、こう歌うのです。詩篇95:1−2「さあ、主に向かって、喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。」
Sunday, July 23, 2017
日野原重明医師105才で召天
日野原重明医師が7月18日に105才になって天に召されました。BBC Newsにもありました。彼の100歳超で現役医師として活躍した経歴は、優れてものです。でも、彼より優れているのは、彼の救い主イエス・キリストです。「ことば(イエス・キリスト)は人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」聖書・ヨハネ1:14 主の御前にいる日野原師は、今、これを深く実感しているのです。
彼を変えた言葉は、聖書1コリント13章の『いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。』彼は、続けてこう書いています。「私は今でもこの聖句が一番私の心の導きになっている。この聖句の意味は、歳と共に実ってゆき、私の老いを成熟させてくれているように思う。」(日野原重明の名言)
今週の29日にキリスト教式告別式を東京都の青山葬儀所で行います。
Sunday, July 16, 2017
「すべて、疲れた人。。。」
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」イエス・キリスト、聖書・マタイ11:28
Thursday, July 13, 2017
SUMMER FUN
Fellowship
with kids from USA。 USAの若者との交流
When? いつ?August 3rd
(Thursday)8月3日(木)
☆☆ Kids English(子供), 5:15-6:15
Candy,
Games in English おやつ、英語でのゲーム
☆☆ Adult English(一般), 8:00-9:00
Fellowship
in English 英語での交流
Where?
どこ? Abundant Life
Christ Church 豊かな命キリスト教会
How much?
Free いくら? 無料
Please
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0263-28-9836
David Junker ダビデ・ジャンカー
Those interested in speaking English, please come. 英会話に興味のある方は、ぜひ来て下さい。
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