ブレーズ・パスカルが書いた本「パンセ」は『考えごと』という意味で、その内容は、キリスト教の真実さを証明するものでした。私は、皆さんに、神、聖書、イエス・キリストや人生について共に考えてほしいです。"都合悪い"ことも考えたいです。
Monday, December 22, 2014
「人間と同じようになられました。」
昔、ローマに、ヘクターという軍人がいた。戦場に出て行くため、兜や武具で身をかため、これが最後になるやも知れずと、家族に別れをつげ、最後に幼な子を抱いて接吻をしようとした。。。ところが幼な子は、いかめしい武具に身をかためた父の姿を見て恐れ、いくら手をさしのべ、よんでも近ずこうとしなかった。そこでヘクターは部屋にもどり、実につけた兜や武具をすべて取り外し、ふだん着に着変えて出て来た。。。すると幼な子は喜んで父のしっかりした腕の中にとびこんで接吻を受けた。。。ヘクターは再び部屋にもどると、武具をいかめしく身につけ、いさましく出陣して行った。。。
上の話しは、クリスマスを例えます。イエス・キリストは、そのままの神の栄光の姿でこの世に来たら、私たちは、圧倒されたでしょう。近よることは、出来ませんでした。しかし、キリストは、その輝きを一時捨て、「人間と同じようになられました。」これがクリスマスです。
『キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。』聖書・ピリピ2:6-11
Tuesday, December 16, 2014
「クリスマスとおふくろ」
私の1番尊い子供の頃の思い出は、クリスマスです。小学2年生の頃から、寮に住んで、東京の東久留米のアメリカンスクールに通っていました。クリスマスの休みになって、電車に乗って、新宿から松本に帰って来ました。松本に近づいて「雪があるか!雪があるか!」と窓の外を懸命にのぞいていました。家に帰ったら、アメリカからのクリスマスプレゼントがクリスマス・ツリーの下に置いてあったり、教会のクリスマス集会を楽しんだりしました。(写:患者さんの手をクリスマス会中ずっと持っていました。)
そのクリスマスの休みに、おふくろが白馬、鹿島槍などでスキーのファミリータイムを計画して下さいました。多くの場合、クリスマスプレゼントは、スキーの道具でした。それをツリーの周りに起きました。そして、安い民宿や旅館に4泊ぐらい泊って、皆でスキーしまくりました。楽しかったですねー。1番楽しんだのは、おふくろでした。母の1年間の娯楽をその一週間にまとめていたのです。。。そのおふくろは、丁度1周間ほど前(12月6日)、土曜日の2:30頃、天国に召されました。。。おふくろの話しを少ししたいです。
母は、10歳の時にはじめてミシガン州のワターフォードコミュニテー教会に行きました。牧師先生のお話に『人を憎むことは罪』と聞き衝撃を受けました。なぜなら、その頃、母の父親(私のおじいちゃん)は、お酒を飲んだり、怒鳴ったりしていました。母のお母さんは、子供と一緒に逃げなければならない時もありました。母は、そういうお父さんを憎んでいました。でも、母は、その教会で、罪から救って下さるイエス・キリストを信じたのでした。信じたすぐ後、お父さんのところに行って憎んでいたこと謝り、牧師先生のお話を伝えました。お父さんは、その娘の行動と言葉に衝撃を受けました。その後、お父さんは、教会に行ってクリスチャンに成り、母も(私も)とても尊敬できる人へと変わりました。
母は、第2次世界大戦のすぐ後のことでしたが、日本で宣教師に成ろうと決めました。50年間近く松本平で父と共に伝道し、奉仕して来ました。この協立病院にも何回も何回も来て患者に仕えました。母は、ビジネスウーマンタイプでした。教会の伝道奉仕はもちろん、聖書書店を経営し、英会話を広く教え、長野県中でSBCラジオの「豊かな命アワー」で聖書の話しをしました。また、商工会議所や「同和問題」の集会、老人大学などで講演しました。また、2000回以上、長野県中のPTAで家庭や教育について講演しました。。。でも、1番印象的なことは、母は、祈りの人だったということです。最近も『お母さん、教会の何々さんの為に祈って』と言ったら、必ず祈ってとりなして下さっていました。最後まで、祈り人でした。
私にもしっかり聖書のGOODNEWS(良い知らせ)を教えて下さいました。これが私の1番の宝でしょう。特に聖書の最も大事なヨハネ3:16を教えて下さいました。<この言葉は、私たち皆に、クリスマスの本当の意味をも教えて下さいます。>読みます。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
説明しましょう。「神」は、天地を造られた神です。その恩方は、「ひとり子(イエス・キリスト)を(この世界に)お与えになった」のです。それがクリスマスの出来事ですね。また、神に背を向いた、神と隣人を愛さない「世を」逆に「愛された」のです。そして、罪のないイエス・キリストが十字架上で、私たち罪人のために、私たちが罪のゆえ死ぬべき死のを代わりとなって死んで下さいました。でも、また、歴史上事実、三日目に復活しました。それは、誰「ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つため」なのです。「御子を信じ(受け入れ)る」と“死んでも死なない命”を頂けるのです。これが1番素晴しいプレゼントですね。
おふくろやおやじが常に語っていたメッセージがこのクリスマスのメッセージです。それは、キリストが生まれたのは、死ぬためです。そして、その死によって、ただ信仰によって、私たちは、本当に「永遠に」また「豊かに」生きるのです。
12月13日(土)松本協立病院のクリスマス会のメッセージ
Thursday, December 11, 2014
意義のあるクリスマスを
豊かな命教会
2014年12月21日(日)
クリスマス礼拝
AM 10:30〜 クリスマス賛美歌 & メッセージ
お祝い会
AM 12:30〜 スペシャル・ランチ、お楽しみ、
& キャンドル・サービス
豊かな命教会 ☎28−9836 松本市出川2−22−14 (出川郵便局のななめ向かい)
<参加自由・入場無料>
聖書・2コリント8:9「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」
心より皆様のお越しをお待ちしています! 豊かな命教会・ジャンカー・ジョナサン宣教師
Tuesday, December 9, 2014
母は天国に召されました。
(父と母は、50年近く長野県の松本市で伝道しました。)
「主の聖徒*たちの死は主の目に尊い。」聖書・詩篇 116:15
*「聖徒」とは、特別に際立った人ではなく、誰でも、ただ主のあわれみによって、自分の罪を認め、主イエス・キリストとその十字架を信じ、従う者。
母の講演より:伝統の子育てを見返す
Wednesday, December 3, 2014
「この人がキリストであった。」
ローマ帝国につかえたユダヤ人歴史家フラウィウス・ヨセフス(37頃〜100頃)の「古代史」に記されたイエスです。
「そのころイエスというものが現れた。もし人と呼ぶべきであるとすれば、まことに賢人そのものであるといわねばならない。なぜなら、彼は、驚嘆すべきわざをなし、喜んで真理を受け入れる人々の教師であったからである。彼はユダヤ人ばりでなく、多くのギリシャ人をも指導した。この人がキリストであった。そして彼は、我々の指導者達の非難を受け、ピラトウスが彼を死刑にした時でさえ、さきにキリストを愛した人々はとだえることがなかった。というのは、彼は、三日目によみがえって人々に現れたからである。。。神の予言者たちは彼について、これらのことの他、多くの不思議なことを予言していた。そして今でも、彼にちなんで名ずけられた『クリステイアノス』(クリスチャン)の一族は消滅しない。」
「私たちの間ですでに確信されている出来事については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。」聖書・ルカ1:1−2
歴史家ヨセフスも、聖書のルカ書を書いた医者のルカも、キリストの福音の事実性を強調しています。。。私たちには、本当に罪の問題があるから、本当の救いまた救い主が必要です。キリストが唯一真の救い主です。
Wednesday, November 26, 2014
赤十字の創立者アンリ・デュナン
生きる原動力は、どこから来るのでしょうか?クリスマスのストーリーから教えられます。なぜなら、イエス・キリストは、死ぬために生まれたのです。私たちは、キリストの誕生、その死と復活によって、活かされるのです。
香川の四国新聞社によると、最近、家内の古里の香川県の坂出市の小学校で、子供たちが赤十字の創設者であるアンリ・デュナンを題材にした演劇をしたそうです。
若い頃のアンリの両親の影響は、とても強かったです。お父さんは、ジュネーブ孤児院の局長で、彼のお母さんは、その監督をしていました。敬虔なクリスチャンであった母は、社会活動を熱心にする教会に行っていました。アンリを連れて貧民街を定期的に尋ねたり、大勢の孤児を自宅に招いたりしていました。
アンリの学校の成績は「宗教」が良い程度で、あとの科目はそれほど良くありませんでした。彼の父親は、こう言ったそうです。「おまえが学問に熱中するあまり、私は人間社会に対する積極的な理想が、おまえの心から消え去ってしまうのではないかと心配している。」父の言葉を聞いたアンリは、その日から変わりました。彼は、スイスのジュネーブ市で活躍した宗教改革者ジャン・カルヴァンからは宗教者としての情熱を学びました。カルヴァンは、何よりも、主イエス・キリストとその十字架を強調していました。聖書・1コリント1:23「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。」
後、彼は「愛の突撃隊」という組織をはじめました。貧しい子供などには新しい服をあげたりしました。そして、病人に、聖書を読んで、真実な望みをもたせました。彼は「木曜会」という聖書の学び会をはじめ、熱心に色んな国の若者達に福音—キリストーを語りました。それは、YMCAになりました。YMCAとは、Young Men’s Christian Associationと言われ、青年や学生が共に聖書を囲んで集まったのです。今は、世界的な組織となりました。この日本にもあります。
彼は、イタリアのソルフェリーノの戦いで、看護婦や医者でもなかったのに、懸命に人に仕えました。そこから「赤十字」と言う組織を考え、後に設立しました。あの有名なナイチンゲールがデュナンの書物を読んで、赤十字創立の必要性を共に感じたのです。ジュネーヴ条約の作りにもとても貢献しました。
アンリは、ジュネーブ条約を果たしましたが、その後は、会議の成功と逆に、試練に満ちた歩みでした。慈善活動に尽くしすぎて、自分の会社が倒産しました。すごい負債を負うことになりました。一時、ホームレスにもなりました。デュナンはこう書きました。「こういう状態にあって私は初めて
不幸な人のために嘆くということの
本当の意味を学んだのです。」
彼は、前は、とても有名でしたが、姿が完全に消えました。しかし、ある良人ホームで見つかり、新聞に取り上げられました。アンリ・デュナン(73歳)に栄えある第一回ノーベル平和賞が与えられたのです。彼は、こう思っていました。「私は 神の手で動かされてきた
一つの道具にすぎない。。。」
「赤十字」もそうですが、よく病院に十字架が見えますね。もちろん教会にも。昔、西洋の病院のほとんどが教会によって運営され、カアされていました。
その十字架の意味は、次の聖句に出て来ます。聖書・1ヨハネ 4:10「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を(この世に、十字架上までに)遣わされました。ここに愛があるのです。」
聖書は、こう語っています。私たちは、初め、天地を造られた神に愛され、神を愛し、隣人を愛していました。しかし、神を愛し、隣人を愛するよりも、自分を愛し、物を愛するようになりました。神は、神を無視する人間を無視しないで、この世に来ました。これがクリスマスの意味ですね。でも、キリストは、死ぬために生まれたのです。イエスは、十字架上で、私たちが死ぬべき死を代わりに死んで下さったのです。ここに神の愛があるのです。これを信じ受け入れるのです。
クリスマスの“クリス”は、キリストのことですね。“マス”は、礼拝することですね。クリスマスは、キリストの誕生だけではなく、その死を覚えることによって礼拝する、という意味です。十字架に架かれたキリストを礼拝する事によって変えられます。
生きる人を愛の原動力は、ここから来るのです。キリストは、私たちが死ぬべき死を代わりに死んで下さったのです。ここに犠牲的な愛があり、愛の活動の源があります。キリストの死によって、私たちは、真に生きるのです。
赤十字もそうですが、地図を見ると、病院のマークは、十字架です。病院に関係する色んなもののマークは、十字架です。でも、このクリスマスをはじめ、その十字架の本当の意味を体験して欲しいです。
赤十字もそうですが、地図を見ると、病院のマークは、十字架です。病院に関係する色んなもののマークは、十字架です。でも、このクリスマスをはじめ、その十字架の本当の意味を体験して欲しいです。
Wednesday, November 19, 2014
Friday, November 14, 2014
しかし、天皇を神として拝むことはできない。
明治24年1月9日のことである。内村鑑三が歴史、数学と英語を教えていた、努めていた第一高等学校(現在の東京大学教育学部)では、教育勅語の奉読式が行われた。日本中の学校で教育勅語とご真影(明治天皇と皇后の写真)を拝むように強制していいた。
教師が順番に前に出て、教育勅語に最敬礼をするのである。内村も前に進んでいった。
聖書のことばを思っていた。「ほふり場につれていかれる、ひつじのように、またもくもくとして、毛を刈る者の前に立つ羊のように、彼は口を開かなかった。」イエス・キリストは子羊のように、全ての者の罪を負って十字架につかれた。罪深いこのわたしのためにも、死んでくださったのだ。わたしもキリストのために死ななければならない、イエスさまのために死にたいと思った。
聖書のことばを思っていた。「ほふり場につれていかれる、ひつじのように、またもくもくとして、毛を刈る者の前に立つ羊のように、彼は口を開かなかった。」イエス・キリストは子羊のように、全ての者の罪を負って十字架につかれた。罪深いこのわたしのためにも、死んでくださったのだ。わたしもキリストのために死ななければならない、イエスさまのために死にたいと思った。
ご真影が目の前にあった。これを拝むわけにはいかない。日本を愛している。天皇を愛している。しかし、天皇を神として拝むことはできない。
内村は、軽く黙礼をした。
教頭先生がこういったそうだ。「こまる。。。、あんなことをしてはこまる。きみがキリスト教徒であることは理解しているし、敬意をもっているつもりだ。。。。しかし、そのような個人的な信仰で、公の儀式を軽んじるとは、けしからん。。。。学校には学校の立場もあるし。。。。、わたしには教頭としての責任もある。。。校長と相談して、きみの処遇をきめる。かえりなさい。。。。」
Wednesday, November 5, 2014
「私たちの道を尋ね調べて。。。」
「吟味されてない人生は、生きる価値はない。」プラトン
”The life which is unexamined is not worth living.” Plato
「私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。。。私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。」聖書・哀歌3:40、22、23前半
Wednesday, October 29, 2014
アンブローケン
今年のクリスマスのあたり、全米で「アンブローケン」(Unbroken)という映画が上映されます。実話で、監督は、アンジェリーナ・ジョリーです。。。
ルイー・ザンペリーニーの生涯は、とても不思議です。第二次世界大戦、47日間太平洋で流されてしまいましたが、日本軍に拾われました。ワタナベと言う軍人にひどく扱われました。映画のタイトルは、直訳で、壊れていない、という意味ですが、くじけない、敵に屈しない、という意味があると思います。実際は、戦争後、彼は、くじけてしまうのです。アル中になるのです。
でも、彼は、回復するのです。大きな伝道集会で、福音を聞くのです。彼はこう言いました。「私は、ひざまずきました。また、人生はじめて主の前で謙りました。私の罪深い生活の赦しをお願いしました。言い訳を言いませんでした。理屈を捨てました。人を責めませんでした。主はこう言いました。『誰でも主の御名に呼び求めるなら救われます。』ですから、その御言葉を信じ、赦しを願い、人生にイエスが入るようにお願いしました。」
残念ながら、映画の中では、彼のアルコール依存やキリストへの改心を入れていません。映画監督は、ルイーの心の臓をはぶいています。でも、彼は、この福音によって、回復し、敵まで赦すのです。後、ワタナベさんに会いに行きますが、拒否されます。赦された者は、赦すのですね。
この映画は、私にとって意味深いです。なぜなら、父は、第二次世界大戦、フィリピンで、日本軍と戦い、憎しみを持ちました。が、上の福音に動かされ、50年近く日本人に仕えました。
残念ながら、今の所、日本では、上映されないようです。ストリーは、あまりにも痛いからでしょうか?
英語予告編:Unbroken Official Trailer #1 (2014) - Angelina Jolie Directed Movie HD - YouTube
すでに本にもなっています。Amazon.com: Unbroken: A World War II Story of Survival, Resilience, and Redemption (9780812974492): Laura Hillenbrand: Books4年間もニューヨークタイムスベストセラです。
Tuesday, October 21, 2014
Friday, October 17, 2014
十字架の意味
1880年(明治13年)4月13日、新島襄は、同志社の全校生徒、教職員、校内にいるすべての者を集めた。朝礼拝のばであった。。。。
新島の口がひらいた。
「このたび、この神さまが建てあげよとされるこの同志社で起こった事件は、本当に残念なことです。。。私は、校長としてどうするべきか神に祈り考えました。そして、ひとつのことがわかったのです。それは、罪は罰せられなければならない、ということです。。。」
「だれかが罰せられるのだろう」と口々に言っているのが、新島の耳にもきこえてきた。
「この学校の責任者は、私、新島襄です。だから、この学校でおこるすべてのできごとの責任が私にあるのは当然です。。。罪はかならず罰されなければなりません。責任者は処罰されなければ、問題の解決はないのです。」
新島は、とつぜん、上着をぬいだ。そしてそれをつくえの上においた。ワイシャツの左のそでをまくりあげた。
「ピシ!ピシ!ピシ!ピシ!」とムチををうちつづけた。
左手は、皮が破れて血が吹き出した。真っ白な新島のワイシャツは血で赤肉が飛び散った。
この事件で、ある学生は、十字架の意味をはじめて知った。身代わりを意味する。イエス・キリストの十字架は、神の子イエス・キリストが人の罪のために死んだという証である。
「神は、罪を知らない方(イエス・キリスト)を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」聖書・2コリント5:21
Wednesday, October 8, 2014
イエスは手を伸ばして、彼にさわり。。。
ある日のこと、アッシジのフランチェスコが馬での野道をすすんでいくと、とつぜん馬がたちどまって動かなくなった。見ると、道ばたにらい病人がうずくまったいるのだった。
いやなにおいが鼻をついて。いままでフランシスコは、らい病人など大きらいだった。馬まで顔をすむけ、すすむのをこばんでいる。フランシスコは、向きをかえて、らい病人から遠ざかろうとした。
そのとき、イエス・キリストがらい病人を愛して、なん人ものらい病人をきよめて、いやされたことを思いだした。
フランシスコは馬からおりて、らい病人に近よっていた、そして財布をとりだして、らい病人ににぎらせた。財布をうける手は指がくされおち、みにくくくずれていた。
フランシスコはその手に口づけした。
じぶんがいやでいやで、早くらい病人のそばからはなれたいのに、自分の思いと反対に、いつのまにか口づけしているのだった。
うみのにおいで胸がむかついた。かれはがたがたふるえながら馬にもどった。無我夢中だった。体はさむ気がして、とり肌だっているのに、心の中に思いがけない平安がやどっていた。
うみのにおいで胸がむかついた。かれはがたがたふるえながら馬にもどった。無我夢中だった。体はさむ気がして、とり肌だっているのに、心の中に思いがけない平安がやどっていた。
Monday, October 6, 2014
香港のデモとクリスチャン
日本語版のザ・リバティwebによると「香港で民主化を求める抗議デモが連日続いている。そうした民主化運動は、キリスト教徒によって支えられていることを、ウォール・ストリート・ジャーナルWEB版が報じた。」Behind Hong Kong’s Democracy Protests, a Quiet Force: Christianity - China
Real Time Report - WSJ デモのリーダー三人がクリスチャンです。カトリックの元司教も応援しているそうです。彼らは、祈祷会を持ったり、十字架を掲げたり、聖書を読んだりしています。
確かに、聖書は、人権や民主市議の基盤であります。全ての人は、神に似せて造られたこと、全ての人が神を必要としている罪人であること、全ての人は、キリストを信じ仰ぐ事によって、救われ神の子供に成れること、全ての「隣人を愛する」ことは、確かな基盤と成る。。。中国の本土の弁護士の多くがプロテスタントでもあります。「こうした(共産主義の)自由と民主主義を脅かそうとする動きに対して、キリスト教を学んだ人たちが立ち上がっている。真実の自由や民主主義には、『人間は神によって平等に作られた存在である』という大前提がある。だからこそ、人間を超えた大いなる存在を信じ、自他をともに尊重する心が生まれてくる。」香港の民主化運動を支える宗教的価値観 宗教は自由と民主主義の最後の砦
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」聖書・ローマ3:23−24
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」聖書・ローマ3:23−24
Friday, October 3, 2014
私にとって醜怪である。
*パスカルは、イエス・キリストのように、人間の自分の見えない魂と心の健康に対する無関心を嘆いている。人は、いろんなものに夢中に成るが、極めて大事なことに無頓着である。心と魂のために、救い主キリストを求めよ。あなたの罪を清めるために十字架上で、御自身の血潮を流されました。その意味と、その体験を求めよ。
Sunday, September 28, 2014
「わたしは、よみがえりです。」
山室軍平は、銀座2丁目にある「サマリタン会」という福祉施設で、病人やけが人、生活を持ち崩した人や貧しく生活力のない人などの世話をしている北島たけしというクリスチャン医師にあった。そして、軍平に患者達に一つ聖書の話しをしてもらえないかとたのんだ。
軍平がこころよくひきうけたのはいうまでもなかった。ふたりはとりあえず「サマリタン会」に足をむけた。
その施設の入り口に足をふみいれたとき、軍ペイは不思議な胸のときめきをおぼえた。
その施設の入り口に足をふみいれたとき、軍ペイは不思議な胸のときめきをおぼえた。
こうした社会事業のための施設というものを、はじめて見たわけであるが、粗末な小屋のような建物、不潔なベッド、むっとするような臭気、そして、横たわってうめく病人たちーそうしたものがすべて、神の栄光のまばゆいばかりの光をうけ、福音の光にとけこんでいるのをおぼえた。
「もしわたしでお役にたちますならば。」
軍平は、北島剛に案内されて、ひととおり施設の中を見て歩いてから、軍平は病人をたずね、聖書の話をした。
「。。。主はいわれました。わたしはよみがえりであり、いのちであると。いまなお、主イエス・キリストは活きて、わたしたちとともに働いておられるのです。なんと力強いことでしょう。われわれは、朽ちはてる肉体をもっていますが、すでに永遠のいのちをさずかっているのです。」
「。。。主はいわれました。わたしはよみがえりであり、いのちであると。いまなお、主イエス・キリストは活きて、わたしたちとともに働いておられるのです。なんと力強いことでしょう。われわれは、朽ちはてる肉体をもっていますが、すでに永遠のいのちをさずかっているのです。」
Friday, September 19, 2014
人の目
「*人の目にはまっすぐに見える(正しいと思う)道がある。その道の終わりは死の道である。」ソロモン王、聖書・箴言14:12
「主を恐れ敬うなら、いのちに至る。。。」箴言19:23
*「神の目」ではなく。。。ということは、人の知恵に頼るととても危険。真の神の知恵(聖書)に頼ること。
Thursday, September 18, 2014
松本の繁栄を願う。。。
松本(人口210,000)を見下ろす弘法山古墳(西暦後300年頃)。
私たちは、松本が栄えるように祈っています。聖書・エレミヤ29:7にこうあります。「その町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。」ニューヨークマンハッタンのTim Keller牧師は、メッセージでこう語りました。「 さてこれはこういう意味です。そして、忘れないで、これは神の子供に語っています。あなたは、神に繋がっていると信じていれば、神の子供であると信じていれば、これがあなたが住んでいるこの地上の町(市)に対する態度でなければ成りません。神はこう言っています。『私は、あなたに、この町を求め、その為に祈り、応援して、シャローム(平安、平和、)の為に祈って欲しいです。』」私たちは、心から松本市と日本のあらゆる面での祝福のために神に祈り願っています。
Thursday, September 11, 2014
錦織&チャン
錦織圭選手は、テニス全米オープン準優勝しました。素晴しい!が、錦織の活躍を大きく促したのは、2014年から錦織圭のコーチとなったマイケル・チャン。(Chang helps Nishikori)
チャンは、17才の頃、1989年の全仏オープンで1番若い選手として優勝しました。その記録は、今も残っています。チャンは2003年の全米オープンを最後に、31歳で現役を引退しました。引退後は、現役時代の1999年に設立した「チャン・ファミリー財団」(Chang Family Foundation)を通じ、キリスト教に基づく慈善事業を展開しています。また、2008年7月12日に国際テニス殿堂入りを果たしました。
チャンは、熱心クリスチャンで、17才で優勝した後、全仏オープンでこう言いました。「私は、主イエス・キリストに感謝します。なぜなら、キリストなくして私は、何でもない。」彼の大好きな聖書箇所は、ピリピ 1:6、「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」
この聖句は、チャンのコーチングにも影響しているような気がします。彼の“粘り強い”信仰がプレーやコーチングアドバイスに影響与えています。ということは、キリスト者が失敗しても、神は、キリスト者をあきらめないのです。続けて取り扱ったり、ケアして、力を下さるのです。その精神がチャンの現役プレーに見ました。また、コーチングアドバイスに見られます。“粘り強く”プレーするようにとアドバイスしているようです。特に、チャンや錦織のボーレーでその忍耐強さが見れます。
錦織によるとチャンはタフなコーチで、メンタル面で大事な役目を果たしている、と言う事です。二人とも身長(だいたい175センチ)が少ないほうで、似たスタイルをプレーするようです。大きな選手や、パワフルなサーブの対応の仕方を教えているのです。一つ一つの試合の後、チャンはこう言っています。「まだ終わっていない。」錦織はこう言います。「特に助かるのは、疲れたり、いらだったりするときです。」
8月の足の施術後、錦織は、走れなかったのです。「ニューヨークに来るべきかも分からなかった。実際、何も期待していなかった」と彼は言いました。でも、チャンは、そのように考えるのを許さなかったのです。チャンはこう言いました。「最高の準備をしていない可能性があります。が、だからと言って、自分にチャンスを与えない、プレーしないことにはいかない。私は彼にこう言った。『第一ラウンドを勝ち、第二ラウンド、何でも起こりうる。』」
そして、私たちは、その結果を見ました。テニスの全米オープン準決勝で、錦織圭選手が世界ランキング1位のノバク・ジョコビッチ選手を破り、日本人として初めて(アジア国籍としても初)4大大会の決勝に進出を果たのです。
Friday, September 5, 2014
Tuesday, September 2, 2014
『子供との約束は、やぶれませんものね。』
イギリスへ帰ったバークレー・バックストン宣教師には、青年や幼い子たちを、いつも受け入れる大きな心があった。家には青年や幼い子供たちからの手紙も、たくさんとどいたし、ひとりの幼い子を向けるときも、大臣を迎えるのと同じように歓迎した。
ある日、こんなことがあった。「とうさん。日本からのお客さまがおみねなりましたよ。」
「先客があるから、12分ほどお目にかかれないと、伝えておいておくれ。」
それで、日本からのお客さんが待っていると、子供がうれしそうに笑う声がするので、ちらっと窓から外を見ると、バックストンが、そのひざに、子供をのせて、楽しんでいるのではないか。
バックストンは、何をしていたのかと聞かれて、日本からの客に、ごく自然にこういうのであった。「私はあの子に12分の約束をしました。子供との約束は、やぶれませんものね。」
「しかし、イエスは言われた。『子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。』」聖書・マタイ19:14
Tuesday, August 26, 2014
「悪の前で沈黙を保つ事はそれ自体も悪である。。。」
クリスチャンは、中東で、特にイラクとシリアで、根絶されています。前からは、サウジアラビアやイランで、最近はスーダン、エジプトやナイジェリアで、今は、ISISによってシリアとイラクで。歴史最大な反逆罪の一つと、このイギリスの新聞が言っています。Douglas Murray: Christianity being cleansed from Middle East by ISIS | Express Comment | Comment | Daily Expressしかし、なぜ日本と世界のMEDIAは何もいて言わないですか?
ナチスに抵抗したボンへファーはこう言いました。「悪の前で沈黙を保つ事はそれ自体も悪である。神は、私たちを無罪ににはしない。語らない事は、語る事である。行動に移さない事は、行動に移すことである。」”Silence in the face of evil is itself evil: God will not hold us guiltless. Not to speak is to speak. Not to act is to act." Dietrich Bonhoeffer
「洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。」イザヤ1:16−17
Thursday, August 21, 2014
「初めに、神が天と地を創造した。」
「自分の理論の力を信じて生きてきた科学者としては、人生の物語は悪夢で終わる。彼は、無知の山を登って、一番高い頂上を征服するところで、最後に岩を超えてみると、そこに何世紀もすでに座っていた神学者の一団によって挨拶される。」ロバート・ジャストロ博士(エドウィン・ハブルが指導したウィルソン山天文台の局長)
“For the scientist who has lived by his
faith in the power of reason, the story ends like a bad dream. He has scaled
the mountains of ignorance; he is about to conquer the highest peak; as he
pulls himself over the final rock, he is greeted by a band of theologians who
have been sitting there for centuries.” Dr. Robert
Jastrow, director of the Mount Wilson observatory once led by Edwin Hubble
Wednesday, August 13, 2014
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