Wednesday, April 22, 2015

「鰯の頭も信心から!?」


先ず、聖書の1コリント15:3−10を読んで下さい。「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」

「鰯の頭も信心から」と言われています。「鰯の頭のようなつまらないものでも信心する人には尊く思われる」と言うことです。。。私たちの心や、人生や、死後の問題に対して本当にこう言っちゃっても良いのでしょうか?私たちには、罪という本当に問題があるから、ことわざや、気持ち、都合良い話しでは勤まらないのではないでしょうか?本当の救いが必要なのです。

使徒パウロは、聖書の1コリント 15:1で「福音」と言う真の救いを強調しています。パウロが「宣べ伝え」、彼らが「受け入れ、立っている」福音でした。これが福音です。3−4「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと」です。

私たち人間は、造り主と素晴しい関係を持っていました。しかし、人間は、神を愛し、隣人を愛するよりも、自分を愛し、物を愛するようになりました。この罪の結果、死、憎しみ、戦争、飢餓、病い、傲慢、ねたみなどが、この世に入って来ました。しかし、愛の神は、私たち罪人を顧みて下さったのです。2000年ほど前、この世に来て、3節、私たちの罪の罰を十字架上で身代わりとなって受けて下さいました。私たちが死ぬべき死を代わりとなって死んで下さいました。このようにして、私たちを深く深く愛して下さっています。今日(復活祭)、世界中でお祝いしていますが、4節、十字架の三日後、キリストは、死者の中から事実復活しました。

でも「鰯の頭も信心から」のように、これも、都合良い話しで話しでしょうか?どうでしょうか?

聖書以外にも、この福音を立証する記録があります。イエスの生涯のすぐ後、西暦後37年頃〜100年頃、ローマ帝国に仕えたフラヴェウス・ヨセフスというユダヤ人歴史家いました。彼の書いた「古代史」にイエスの記録が残されてあります。
「そのころイエスというものが現れた。もし人と呼ぶべきであるとすれば、まことに賢人そのものであるといわねばならない。なぜなら、彼は、驚嘆すべきわざをなし、喜んで真理を受け入れる人々の教師であったからである。彼はユダヤ人ばりでなく、多くのギリシャ人をも指導した。この人がキリストであった。そして彼は、我々の指導者達の非難を受け、ピラトウスが彼を死刑にした時でさえ、さきにキリストを愛した人々はとだえることがなかった。というのは、彼は、三日目によみがえって(この箇所5−10のように)人々に現れたからである。。。神の予言者たちは彼について、これらのことの他、多くの不思議なことを予言していた。そして今でも、彼にちなんで名ずけられた『クリステイアノス』の一族は消滅しない。」

聖書以外にも、このような証拠がありますが、世界のベストセラー聖書は、何と書いてありますか?。。。キリストは、復活後、多くの方に現れた、と書いてあります。

1コリント 15:5「ケパに現れ。」ここには記録されていませんが、キリストは、先ず、ペテロにあう前に、マグダラのマリアを含める数人の女性たちに現れたのです。聖書では、女性がとても大事にされるのです。。。そして、ケパにあったのです。ケパは、キリストの一番弟子の別名ペテロでした。ペテロは、キリストを“否み”ましたが、それでも、あわれみ深いキリストは、早速、ペテロにあいに行きました。。。キリストの復活の証人は、女性たちを含めないで、今のところ1人です。

5節後半「十二弟子に現れ。」十二弟子」は、中心の弟子をまとめて言う時に使った称号(肩書き)でした。自殺したユダを含めないで、上の「ケパ」を含めての十二弟子」でした。。。キリストの復活の証人は、今のところは、今11人です。

6節 「五百人以上の兄弟たちに同時に現れ。」この「五百人以上」は、多分十二弟子」を含めない、一般的なクリスチャンだったでしょう。現れた後、死んだ方々はいましたが、その頃「その中の大多数の者は今なお生き残って」キリストの復活についてその人に確かめる事も出来たのです。キリストが天に上がって、たったの20年でした。この500人は「私たちは、彼を見たのです。話しを聞いたのです。触ったのです」と言っていたのです。。。また足すと、キリストの復活の証人は、今512人以上となります。

7節 「キリストはヤコブに現れ。」これは、キリストの兄弟で、はじめは、キリストを疑って、拒否していて、決して信じていませんでした。でも、彼に現れたから信じたのです。イエスは、自分を否んだペテロと疑ったヤコブに先ず、現れたのです。深い恵みです。イエスは、戸惑っているあなたにも、近より語りかけます。。。足すと、キリストの復活の証人は、今513人になります。

7節後半「使徒たち全部に現れ。」キリストの「十二弟子」も、「使徒たち」と言われました。が、ここの「使徒たち」は、それに加えて送り出された伝道師たちだったでしょう。彼らにも、キリストは、現れたのです。。。釈迦がいわゆる「悟りを得た」時に一人でした。モハメットもいわゆる「啓示」をもらった時も一人でした。しかし、イエスは、公に十字架に架かり、多くの人々に現れたのです。。。さらに足すと、キリストの復活の証人は、520人ほどです。

8節 「私(パウロ)にも、現れ。」8節前半、パウロは、自分のことを「月足らずで生まれた者と同様な」者で、「使徒の中では最も小さい者」のちびで、「使徒と呼ばれる価値のない者」と言いました。「なぜなら」9節後半、彼「は神の教会を迫害したからです。」。。10節前半「ところが」パウロに信じられないような変化が起こるのです。9節後半「神の教会を迫害した」パウロが「今の私になりました。。。ほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。」彼ほど熱心にキリストを伝え、教会に仕えた使徒はいませんでした。彼の働きの範囲はとても広く、書いた手紙も使徒の中で一番多かったです。。。でも、10節、それは、ただひたすら「神の恵み」によるものでした。「神の恵み」は、この10節だけで3回も書いてあります。パウロは、自分自ら来る恵み「ではない」と認めながらも、でも、彼個人に「対するこの神の恵み」、有効的な「むだにはならない」恵み、自分「に(事実)ある」恵みと喜びました。復活されたキリストとの出会いによって、彼は、素晴しい恵みを体験したのです。。。驚くばかりの恵みなりき
、この身の汚れを知れる我に。」Amazing Grace”「驚くばかりの恵み」という歌は、都合良い話しではなく、本当です。あなたにとっても。

アメリカの法廷では、色んな証人が出て来ます。一人は、直接見たり、聞いたりはしていないが、他の人が聞いたり、書いたりしたものを証言する人です。また、評判を語る証人も法廷に出て来ます。また、専門家の証人は、科学や医学の知識で、事件について語る人です。でも、目撃証人は、その目などの5感覚で立証したりする人です。。。この500何十名は、目撃証人でした。アメリカの裁判では、証人が一人でも良いそうです。でも、キリストの復活を証ししたのは530人以上だったでしょう。そして、当時、その500人の中の何人かにその事実を聞く事も出来たのです。

世界の宗教は、あるキリスト教を含めて、主にグッドアドバイス(良い助言)を提供します。このように生活しましょう。世に愛着を持つな。頑張ろう。清く歩もう。父母を敬え。隣人を愛せ。迷惑をかけるな。素晴しいアドバスが中にもありますが、真面目に実践しようとすると、ただ重くなるだけです。。。しかし、聖書を基盤とするキリスト教は、先ず、グッドアドバイスではなく、先ず、グッドニュースです。1節の「福音」(良き訪れ)いや、素晴しい報道です。現代のニュースは、何ですか?ニュースや報道は、主にアドバイスではないのです。ニュースは、最近起こった事実・出来事を伝えます。。。私は、ニュース番組が大好きです。また、歴史もとても好きです。子供にこう言います。「ニュースは、最近起こった歴史ですよ。聞き学びなさい。」福音こそがグッドニュースで、事実起こった素晴しい報道です。3−4「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと」です。また、その事実と真実を立証するために、5−10、キリストが500何十人に現れたのです。。。キリストは、本当に私たちの罪のために死なれ、私たちをこよなく愛して下さったのです。本当に復活し、死に打ち勝ったのです。全て治めているのです。ここに今いて下さるのです。このグッドニュースを聞いて、信じて、喜ぶのです。また、変えられるのです。

今日の洗礼も、キリストの十字架と復活を証明して下さいます。水の中に入る時、キリストの死に預かった事を表しています。水から出る時、復活を表しています。今日の姉妹の洗礼は、歴史上事実あった十字架と復活の福音、それによる救いを指しているのです。姉妹も、あなたも、事実、素晴しい恵みに預かったのです。

「鰯の頭は信心から!?」どんなに立派な「信心」や信じる心があっても、その信仰の対象が弱ければ意味がないです。自分の信仰よりも、対象の真実や力が大事です。確かな力あるものに小さな信仰があれば、それで"OK"です。ティモシー ケラー牧師は、こう言いました。「強い信仰(信心)が弱い対象にあると失敗するが、弱い信仰は強い対象にあると成功する。」”Strong faith in a weak object fails, but even weak faith in a strong object succeeds.” と言うことは『イワシの頭も信心から』はペケ(no)どす。明らかに「鰯の頭」は、私とあなたを救えません。

釈迦や公子は、立派な方です。マリヤ、モーセ、パウロも。アウグステナス、ルターやマザーテレサも。しかし、私たちを救い清めることの出来る方は、唯一で、キリストです。主イエス・キリストは、天地を造り、モーセの創世記から予言者マラキ書まで予言され、処女を通して生まれ、不可能な奇跡を行い、死者を蘇らせ、神の言葉を鋭く語り、十字架で私たちの罪を完全につぐない、3日目にお墓から復活し、天に昇り、現在「キリストはいつも生きていて、彼ら(私たち)のために、とりなしをしておられる」のです。ですから、キリストのみが「完全に救うことがおできにな」るのです。あなたの「弱い信仰」を「強い」お方に置くのです。十字架に架かれて復活した方、500人以上の方に現れ、今も私たちを顧みて下さる方が、私たちを救い助けて下さる方です。この恩方を信じ仰ぎ喜びましょう。

Wednesday, April 15, 2015

聖餐式の意味とハウウェル・ハリス


ハウエル・ハリス(18世紀)は、信徒として、イギリスのウェールスの信仰復興で、キリストを広く宣べ伝えました。しかし、彼は、その前、子供の頃、「悪ガキ」でした。そして、20代前半、自分の良い人に変えようとしました。しかし、ただ「滅びの道」に向かっていた事に気がつきました。

そして教会に行き、そこのキリストとその十字架を覚える聖餐式に預かりました。彼の言葉を通しての彼の体験。「より強いお方が来た。聖餐の食卓で十字架で血潮を流したお方が常に私の目の前にあった。そして、その血潮によって私が赦しを受けたという信仰の力が与えられた。私の重荷が取り去られた。私は、喜びを抱いて、飛び跳ねて、家路に帰った。自分の罪が赦されたことを知った。ああ、素晴しい日でした。それを常に感謝を持って覚えるように。」

「それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。』食事の後、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。』」聖書・ルカ22:19−20

ぜひ、教会で聖餐式を見に行って下さい。牧師からの説明を受け下さい。聖餐式を通して福音(聖書のエッセンス)が分かるのです。「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる(十字架の)贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」聖書・ローマ3:2 キリストは、私たち罪人の死ぬべき永遠の死を十字架上で代わりとなって死んで下さったのです。信じ仰ぐのです。ぜひ、教会で聖餐式を見に行って下さい。牧師からの説明を受けて下さい。


Sunday, April 5, 2015

アメリカへ


先日、10日間ほど、アメリカのミシガンとサンデイエゴに行きました。

先ず、ミシガンの父のいるところを尋ねました。母は、去年の12月に天国に召されました。それで、父が天国に行く前に、またあいてくて、家族5人で行きました。。。父母は、長野県の松本で50年弱伝道しました。

尊敬する父C.F.ジャンカー

ミシガンの次は、サンデイエゴでした。
日曜日の朝、兄たちの教会の礼拝に行きました。

コロナド島

シー・ワルド

とても良かったです!