Friday, December 20, 2013

「彼は、キリストであった。」


「さて、この頃、イエスという賢人がいた。もしも、人間と言えたら。なぜなら、彼は、素晴らしいみ業を行う人、喜んで真理を受け入れる人の教師であった。彼は、自分のところに多くのユダヤ人と多くの異邦人を引き寄せた。彼は、キリスト(メシヤ、救世主)であった。そして、私たちの間の主な人の勧めによって、ピラトが十字架の死刑の宣告を受けたが、彼を愛した者は、先ず彼を捨てなかった。なぜなら、彼は、三日後、生きて彼らに現れた。このようなことと彼についての他の一万もの素晴らしいことが、神の予言者たちが予言された。そして、彼から名前を受けたクリスチャンという小集団は、今も絶滅していない。」フラビウス・ヨセフス

“Now there was about this time Jesus, a wise man, if it be lawful to call him a man; for he was a doer of wonderful works, a teacher of such men as receive the truth with pleasure. He drew over to him both many of the Jews and many of the Gentiles. He was [the] Christ. And when Pilate, at the suggestion of the principal men amongst us, had condemned him to the cross, those that loved him at the first did not forsake him; for he appeared to them alive again the third day; as the divine prophets had foretold these and ten thousand other wonderful things concerning him. And the tribe of Christians, so named from him, are not extinct at this day.” JosephusAntiquities, Book XVIII

「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。」聖書・1コリント 15:3−7

Wednesday, December 18, 2013

Sunday, December 15, 2013

協立病院


先週の土曜日、協立病院で、 私たちの教会が死を目の前にしている患者に、クリスマス賛美歌を歌い、ジャン兄がクリスマスメッセージをして下さいました。そして「ふるさと」をも歌いました。


教会の姉妹が次のように語りました。

『今メロディーが流れ始めた「ふるさと」の歌は、作詞が長野県出身の高野辰之、作曲が鳥取県の岡野貞一と言う方で、このお二人のコンビで、故郷の他にも、「春が来た」「春の小川」「おぼろ月よ」「紅葉」などの日本を代表する唱歌が作られました。

もうひとつ特筆すべきことは、このお二人は神様を信じるクリスチャンだったと言う事です。そのことを考えながら歌う時、ここに描かれた「ふるさと」とは、私たちに与えられた本当のふるさと、天の御国ではないかなと思うのです。

 私ごとですが、私の父は昨年のまさにこの季節、この協立病院二階西病棟にお世話になっていました。歌の好きな父に「クリスマスには、(教会の)みんなで讃美歌をうたいにくるよ。だからがんばって!」と励ましていました。昨年のこの日、父の容体はあまり思わしくありませんでしたが、先生や師長さん、大西さんはじめたくさんの看護師さんが、動くことの出来ない父をベッドに寝かせたままで、ここに運んでくれました。私たちは何曲かのクリスマスの讃美歌を歌いましたが、父は動かせる方の手で拍子をとって、低く歌っていたことを昨日の事のように思い出します。

 みなさん、病は大変辛いものですが、この病院に今いるということは、実は素晴らしい恵みを、すでに受けていることなのだと元患者の家族として申し上げたいと思います。本当に素晴らしいスタッフの皆さんに看護を受けられたことを家族として心から感謝いたします。

 その父は今年の五月に旅立ちました。心から愛した「ふるさと」の歌をサヨナラの代わりに葬儀で歌いました。今は本当の故郷に帰っているのだと思っています。

 その「ふるさと」の歌を、会場にいるすべての皆さんで歌えたらと思います。ご自分の大切な故郷を想い、そして私たちに与えられている本当の故郷に想いをよせながら、どうぞご一緒に歌って下さい。』

Wednesday, December 11, 2013

アドベントのお祝い


「魂の悩みのある人、自分の(心が)貧しく不完全な人、将来に素晴らしいものを期待する人、のみにアドベント(クリスマス)のお祝いが可能である。」ディートリッヒ・ボンヘッファー 

"The celebration of Advent is possible only to those who are troubled in soul, who know themselves to be poor and imperfect, and who look forward to something greater to come." Dietrich Bonhoeffer

『私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主(造り主)に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。セラ』詩篇32:5

Tuesday, December 10, 2013

その季節です!


すでクリスマスっぽい食事。ありがとう、奈帆!

「ことばに表せないほどの賜物(絶大な神の恵み)のゆえに、神に感謝します。」聖書・2コリント9:15

Tuesday, December 3, 2013

「御神の愛をば」


アメリカのモールで突然、クワイアーが歌いはじめる。すごい!
ここクリック:YouTube

下の聖歌「御神の愛をば」を歌っている

御神の愛をば 歌う我らの
    胸は開きたり 花のごとくに
    御顔の光に 迷いの霧も
    疑いの雲も 消えて跡(あと)なし 

  御神は罪ある者をも愛し
    御子なるイエスをば 遣わしませり
    許しの御恵み 聖むる力
    筆にも声にも 宣(の)べ尽くしえず

Thursday, November 28, 2013

ごきぶり、クリスマスと横山幹雄牧師


「ママ、ゴキブリよ!」

「人は私(横山幹雄)をゴキブリ牧師と呼びます。」

ある日、私は、親分格の大きなゴキブリを見つけてやさしく語りかけました。

「あのなあ、ごきぶりくん。この家には、こわーい母ちゃんがいるから来るじゃないよ。人の目にふれるところに姿を見せな方がいいよ。」

しかし、私の心からの説教も、ごきぶりの心に悔い改めを与えることはできません。私は悩みました。

「どうしてごきぶりたちに、わたしのことばが通じないのだろう。—そうだ、わかった。ごきぶりはごきぶりで、わたしは人間だから、ごきぶりに私の言うことがわからないんだ。私がごきぶりになればいいんだ。ごきぶりになって、ごきぶりの世界へ行こう。」。。。

まず妻に打ち明けました。
「おまえは今までに私によくつくしてくれた。おまえのことを心から愛しているよ。しかし、私は今日ごきぶりになって、ごきぶりの世界に行くよ。ごきぶりたちがみすみす殺されるのを、これ以上がまんできないのだ。私はごきぶりに警告を与えに行くつもりだよ。」

もと看護婦の妻は、あわれむような目で言いました。
「あなた大丈夫?」。。。

ぺこっとおじぎをすると、私の体は小さく小さくなっていきます。
「ママ、ごきぶりよ!」

「ちがうの。それはパパごきぶりよ。」

人間たちの騒ぎを背に、パパごきぶりは、ごきぶりの世界につながっている流し台のうしろにひって行ったのです。。。

しかし、こんなことはありえない、ばかげたはなしです。。。

しかし、歴史の中にこえりょりもっとふしがなことが実際に起こったのです。この天と地を造られた真の神が、貧しい人間となってこの世界においでになったのです。王の王であられる方が、貧しく低くなられた、人としてこの世界にこられたのです。

立派な宮殿、貴族の家、大金持ちの家にではなく、貧しい大工のせがれとして、くさい馬小屋の中で誕生されたのです。それがイエス・キリストです。。。

イエス・キリストは神の子であり、子なる神でありながら、なぜ人間になられたのでしょうか。。。

イエス・きりすとは十字架の上で私たちの身代わりとなって死んで下さったのです。キリストの死は、私たちの罪をゆるす力があります。。。

イエス・キリストを信じる者は、罪ゆるされ、神の子とされ、永遠のいのちが与えられるのです。


『ことば(キリスト)は人となって、私たちの間に住まわれた。』聖書・ヨハネ1:14

Tuesday, November 26, 2013

感謝祭




感謝祭は、私たちの豊かな命教会で、11月23日(土)にお祝いした。40名くらい。外人が多かった。見ての通り、男性が七面鳥をさばいている。


「また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」聖書・コロサイ1:12−14

Friday, November 22, 2013

ジョンとアン


こないだジョン・スミス博士(Dr. John Smith)と奥さんのアンにあえて嬉しかったです。彼らは、オーストラリアから来て、彼は、名古屋で講義していました。数年前、信州大学で地質学を教えていた頃、私たちの豊かな命教会で礼拝していました。

Thursday, November 21, 2013

絶対的なものはなし?


ノーベル物理学者受賞の理論物理学者アインシュタインアルベルト・アインシュタイン - (1879〜1955、ドイツからアメリカへ亡命)は、質量の変化を考えた相対論的力学を確立した人である。この力学は、それまでのニュートン力学をくつがえし、基礎科学はもちろん、原子力工学にいたるすべての工学・技術関係どだいとなり、さらにその考えは哲学・芸術など20世紀の思潮にも影響を与えた衝撃の理論であった。

ある日彼は招かれてハイデルベルクで、一般に相対性原理と呼ばれているこの衝撃的学説について講演をおこなった。アインシュタインはまずはじめに、おもむろに口を開くといった。「今日は、この宇宙には絶対的なものは何もない、ということをお話します」

すると静まった聴衆の中から突然声があがって、「あなたの相対性原理も絶対的なものではない!」と叫んだ者があった。これには博士も聴衆もみな大声を出して笑い出してしまった。

私達は「絶対的なはない」というと、その「絶対的なものはない」と絶対的にいえるのでしょうか?「絶対的なものはない」という言葉自体で“絶対的なこと”を言っているのです。

「初めに、神が天と地を創造した。」聖書・創世記1:1

Sunday, November 17, 2013

神と出会ったパスカル



1654年11月23日から24日にかけての夜半に、フランスの数学者・物理学者・宗教哲学者ブレーズ・パスカル(1623〜62)は改心と呼ばれるできごとを経験し、生ける神の現実に直面した。

その記念すべき夜以来、パスカルは衣服の内側に、すなわち表地と裏地との間に、小さなメモを縫いこんで死ぬまで肌身から離さずにいた。そのメモには彼が真に経験した神との偶然の出会いについて短く記されている。その中には次のような意味深い言葉を読む事が出来る。

「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神は、哲学者および識者の神ならず」

パスカルがこれでいわんとしたことは、「神は断じて単なる理念や、人間お思考の産物であるはずがない」ということであった。

「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」聖書・1コリント1:23

安曇野ファミリーチャペル


 日本アルプス

安曇野ファミリーチャペル

賛美を歌っている。

昨日、私のメッセージ。

Tuesday, November 12, 2013

「孤独」


日曜日、ジョイー・ストールは、豊かな命教会で「孤独」について語る。
ありがとう、ジョイー。

Wednesday, November 6, 2013

神に告ぐべし


このさびしさを誰に告ぐべきか
神に告ぐべし

クリスチャン詩人の八木重吉

「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」聖書・詩篇42:5

Sunday, November 3, 2013

ピクニック



白馬に行く途中、

ピクニックしました。

奈帆がおにぎりを作った。

秋!

家族とジョイー・ストール。

Friday, November 1, 2013

開智小学校



松本城の近く

友達とお客さんのジョイーと見に行った。

日本の一番古い小学校の一つー 1876の頃.

天使に注目。

Wednesday, October 30, 2013

宗教改革の日


クリスチャンにとって、10月31日は、本当は、ハローウィンではなく、宗教改革記念日です。1517年のこの日にルターは、ウィッテンベルグ城教会の扉に「95か条」を張り出して、宗教改革がスタートしました。

宗教改革の大事なポイントの一つは、人の行いによってではなく、キリストの十字架の行いによって、恵みによって、信仰によって、人は、救われ、神の子となり、永遠の命を頂くことです。これは、福音(神からの良き訪れ)と言います。この真理が世界を揺り動かしたのです。今も、真の愛を知る人は、変えられ、周りの人も、社会も、変わります。 

「起こらなければならないことは、福音そのものの新たな理解です。。。福音とその素晴らしさが全体的にまた明確に伝えられた時に、神がその贖いの力を用いて教会と世を新たにするのです。神は、他でなく、福音そのものに、救いに至る力を与えるのです。」R.C.スプロール


「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる(十字架の)贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」ローマ3:24

Thursday, October 24, 2013

「あなたの神」



「何であっても、あなたの心がすがり、頼るものが、本当はそれがあなたの神である。」マルテン・ルター "Whatever your heart clings to and confides in, that is really your God."

「私は、多くのものを手に持ちましたが、それを全て失った。しかしながら、何であっても神の手に置いたものは、それら全ては今ももっている。」マルテン・ルター "I have held many things in my hands, and I have lost them all; but whatever I have placed in God's hands, that I still possess." 

「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」イエス・キリスト、聖書・マタイ6:24

Wednesday, October 23, 2013

詩編23編


東京都三鷹市で刺殺された私立高3年・鈴木沙彩(さあや)さん(18)の葬儀・告別式が12日、三鷹市内のキリスト教教会で詩編の23編が歌われた。沙彩さん安らかに、賛美歌歌い350人涙の告別式…三鷹女子高生刺殺

詩編23
賛歌。ダビデの詩。
 主は羊飼い、
わたしには何も欠けることがない。
 
主はわたしを青草の原に休ませ
 憩いの水のほとりに伴い
 魂を生き返らせてくださる。
主は御名にふさわしく 
 わたしを正しい道に導かれる。
 
死の陰の谷を行くときも 
 わたしは災いを恐れない。
 
あなたがわたしと共にいてくださる。
 あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。
わたしを苦しめる者を前にしても
 あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
 わたしの頭に香油を注ぎ
 わたしの杯を溢れさせてくださる。
命のある限り
 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
 主の家にわたしは帰り
 生涯、そこにとどまるであろう。

「ただ挨拶しに来たんだ。」



ある牧師は、昼間に、教会を通り抜けて、誰が祭壇のほうで祈っていたか、確かめに行きました。その時、突然、戸が開いて、誰かが通路を歩いて来ました。男は、ひげを剃っていなかったので、牧師は、顔をしかめました。男のシャツは、切れていて、ぼろぼろで、彼のコートは、すり切れていて、ほぐれていました。彼は、ひざまずいて、頭をかかげました。それから、立ち上がって、歩きさりました。その数日も、丁度、昼時、牧師は、この男を見ました。毎回、数分、弁当箱をひざにおいて、ひざまずきました。

それで、牧師は、男のことを怪しく思いはじめました。牧師は、とまって男に聞くことを決めました。「ここで何をしているの?」年老いた男は、自分は、工場の労働者で、お昼ごはんは、30分間で、力を得る為に祈りに来たと。「工場は、遠いから、数分しかいないし。ひざまずいて主に祈る時、こんなふうに祈るんだ:『わしの罪を取り除いて、友達に成ってくれた時以来、わしは、どんなに幸せか、あんたに伝えに来た。わしは、祈りかたは、良く知らんが、毎日、あんたのことを思い出しているんだ。だから、イエス様、わしの名は、ベンで、ただ挨拶しに来たんだ。』」牧師は、恥ずかしく成って、ベンに「良いよ、いつでも祈りに来ても良いよ。」と
言いました。

「行かなくちゃー。ありがとう」とベンは早く去って行きました。それで、牧師は、前やったことが無かったが、祭壇でひざまずきました。そこでイエスと出会い、彼の冷えた心が溶け、愛によって暖かく成りました。涙が頬に流れながらも、老いたベンの祈りを再び祈りました。「私の罪を取り除いて下さって、友達に成った時以来、私は、どんなに幸せか、あなたに伝えに来ました。私は、祈りかたは、良く知らないが、毎日、あなたのことを思い出しています。ですから、イエス様、私です。ただ挨拶しに来ました。」

ある日、お昼が過ぎて、牧師は、ベンが来なかったことに気が付きました。数日がさらに過ぎても、ベンは、来なかったので、牧師は、少し心配しはじめました。工場で、ベンについて聞いて、病気だと分かりました。病院は、ベンのことを心配していましたが、逆に彼は、皆を喜ばしていました。一週間共にいたベンは、病棟に変化をもって来ました。彼の笑顔と喜びは、人から人へと広がって行きました。人が変わることが彼の報酬でした。

看護婦長がどうしてベンがそんなに喜んでいるか理解出来ませんでした。なぜなら、花も、電話も、手紙も、お訪問も全然なかったのです。牧師は、病棟に残りました。看護婦の心配をベンに伝えました。彼を愛する人は一人も来なかった。身寄りもいない。驚きながら年老いたベンは、笑顔で話しました。「看護婦は、間違っているよ。彼女が分かるわけは無い。彼は、いつも来ているよ。毎日の昼に、彼わしの特別な親友が来るんだ。あの、彼は、座って、わしの手を取って、近よって、こう言うんだ。『私がベンの罪を取り除いて、友達に成れて、私は、どんなに幸せか、あなたに伝えに来ました。毎日、あなたのことを思い出して、あなたの祈りを聞くのが大好きです。ベン、私は、イエス・キリストです。ただ挨拶しに来ました。』

Tuesday, October 22, 2013

10月20日、礼拝


豊かな命教会

小岩井牧師

キリストは神の御姿である方なのに、
神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、
仕える者の姿をとり、
人間と同じようになられました。
人としての性質をもって現れ、
自分を卑しくし、
死にまで従い、
実に十字架の死にまでも従われました。
ピリピ2:6−8

Monday, October 14, 2013

「元始に神天地を創造りだまえり」



同志社大学の創立者新島襄(1843〜90)は18才頃、はじめて漢文で書かれたキリスト教の書物を読んで、その書き出しに、「元始に神天地を創造りだまえり」という一句を見て考えさせられた。「なるほど、この世界のあらゆるものは、これを造った神様がいなくてはできないはずだ。机は大工が作ったものだ。その机を作った大工も、大工が用いた材木も、もとはといえば決して人間業でできたものではない。するとこの書物にあるとおり、この世には真の神様というものがいらっして、この天地万物をつくり、ご支配しておられるにちがいない」となっとくし、信仰の道へ入った。

「初めに、神が天と地を創造した。」聖書・創世記1:1

Saturday, October 12, 2013

近所


バルコニーから見て

10月12日ー13日、ファミリーキャンプ



安曇野ファミリーチャペルと共に
豊かな命教会の数人と


子供が多かった

The Three Amigos~ ダビデ(私)、ダン、ジャン兄弟

城さんと他

Sethと赤ちゃん、その他と礼拝

Thursday, October 10, 2013

Monday, October 7, 2013

わたしの望みは主イエスだけにある








1、わたしの望は主イエスだけにある 揺がぬ礎
真の光よ その高き愛と 永遠の平和
真の慰さめ すべてのすべてよ

2,この世に来られた 神の独り子は 恵みと真に
満ちておられる主  十字架の苦しみ 御神の怒りを
その身に負われて 人を救われた

3,闇夜にさ迷う 世界を照らして 輝く栄光
イエスの甦り  主イエスの勝利に 死の刺折られて
尊い血潮は わたしを贖う

4,恐れは消え去り 罪は赦された わたしの歩みは
御手の中にある  この身をイエスより 離すものはない
終わりの時まで イエスに拠り頼む

教会福音讃美歌359

日本語で聞く:教会福音讃美歌359番「わたしの望みは」 - YouTube

英語で聞く:Gettymusic - Online music

「というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。」聖書・1コリント 3:11 

Thursday, October 3, 2013

地震対策





百瀬兄は、豊かな命教会の地震対策をして下さっています。ありがとう!
この辺は、地震で知られています。

Monday, September 30, 2013

「空の空」20



「光は快い。太陽を見ることは目のために良い。人は長年生きて、ずっと楽しむがよい。だが、やみの日も数多くあることを忘れてはならない。すべて起こることはみな、むなしい。若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。だから、あなたの心から悲しみを除き、あなたの肉体から痛みを取り去れ。若さも、青春も、むなしいからだ。
あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう前に。その日には、家を守る者は震え、力のある男たちは身をかがめ、粉ひき女たちは少なくなって仕事をやめ、窓からながめている女の目は暗くなる。通りのとびらは閉ざされ臼をひく音も低くなり、人は鳥の声に起き上がり、歌を歌う娘たちはみなうなだれる。彼らはまた高い所を恐れ、道でおびえる。アーモンドの花は咲き、いなごはのろのろ歩き、ふうちょうぼくは花を開く。だが、人は永遠の家へと歩いて行き、嘆く者たちが通りを歩き回る。こうしてついに、銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ、水がめは泉のかたわらで砕かれ、滑車が井戸のそばでこわされる。ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。空の空。伝道者は言う。すべては空。」伝道者の書11:7−12:8



人生の空しさは、普通、主に、人生を長く経験した人に理解出来るのです。いろいろ体験し、自分を含める人間の頼りなさ実感し、快楽のリミットを実感し、人生に与える仕事の喜びの限度を実感するのです。でも、ソロモン王は、聖書は『人生の空しさを早いうちに学べ』と言っているのです。こう書いてあります。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」神は、神抜きの人生の空しさと神あり人生の尊さを喜んで欲しいのです。早いうちに。若者に2つのことを覚えて欲しいのです。先ず、若い時に人生を喜ぶこと。次に、若い時に神を覚え知ること。

先ず、若い時に人生を喜ぶ楽しむこと。

「光」を「喜べ」と言っています。「我れら十三才の時のまたあるべきか。」徳川頼宣 神の与えた『善は急げ』なのです。なぜなら、目が見えない、年老いた「暗闇」日が来るからです。ですから、「あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。」若いうちに人生観を確立し、世界観を描いておくことです。神を知る者は、人生を楽しんで良いのです。キリスト教は、修行や禁欲主義ではないのです。全て神が与えたものを喜ぶのです。「大きく神の御意の太陽の光に身を投ぜよ」と小畑進牧師は説得しています。

でも、そのバランスは「しかし」という言葉で分かります。楽しむが良いが、それと同時に、神が見ていて「その心のおもむくまま、あなたの目の望むまま」は、“神を忘れてするな”と言っているのです。次の節は、こう書いてあります。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」

次に、若い時に神を覚え知ること。

私は、何回も四国学院大学のチャペルタイムでメッセージしたことがありますが、その校門脇の立派な岩に、この言葉が彫り刻まれていて人目をひきます。「汝の若き日に汝のを創造者をえよ。」「空の空」をテーマしてある伝道者の書は、この希望と期待の言葉の結論の言葉で終わっています。「人生をほとんど使いはたして、残り少くなってからではなく、喜びも苦しみも豊かな若い日のうちに!」と天に召された小畑進む牧師が書いています。

なぜ「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」と言っているのでしょうか?なぜなら、年老いてくると「わざわいの日」が来るのです。また「『何の喜びもない』と言う年月が近づく」のです。この箇所で「わざわいの日」を比喩的に例えます。ここから、年老いてくると肉体的な精神的な衰退を描きます。

「太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲」は、死を例えているのです。暗闇は、死を意味します。死が一番「わざわいの日」です。

「家を守る者」は、腕と手のことです。それは「震え」るのです。これも「わざわい」です。前のように自分をケア出来ないので、恵まれた人は、家族によって帰されたり、ホームヘルパーが来てもらえます。が、家族を離れたホームでケアされるのは、寂しいです。

「力のある男たち」は、多分足のことです。足は「身をかがめ」るのです。曲がったり、弱くなったりします。人に助けてもらったり、杖をつかなえればならないのです。転んだりして、骨も折れます。「わざわいの日」です。

「粉ひき女たち」は歯を意味します。歯が抜けて「少なくなって」、噛み、ひきこなす「仕事をやめ」るのです。今は、入れ歯がありますが、ソロモンの頃の昔の人は、食べにくかったでしょう。「わざわい!」

「通りのとびら」は目のことで、その目は「閉ざされ」見えなくなったりします。大好きな本が読めなくなるのです。「目はかすみ耳は蝉なく歯は落る、降らねど積るの雪」仙崖

「人は鳥の声に起き上が」ることは、朝早い鳥の音で、朝早く起きてしまう老人の習慣です。「えっ何て言うた。。。えっ、えっ」と聞きかえして、残念ながら嫌われるのです。私は、まだ55才ですが、もうすでに4時頃、5時頃起きます。鳥の音がなくっても。

「臼をひく音も低くなる」ことは、食欲が減ったり、食べることが少なくなることを耳しています。若い頃は、信じられないほど食べるが、今は「腹八分」ではなく、「腹五分」いや、それ以下かもしれません。

「歌を歌う娘たち」は、多分耳のことです。聞こえなくなることです。どんどん耳が遠くなりますね。老いると、声がしわがれて卑しいダミ声になるのです。

確かに年老いた方は「また高い所を恐れ」るのです。80歳の登山家三浦雄一郎のような老人は、珍しいです。高い所だけではなく、身近な所にある「道でおびえる」のです。ちょっとした石ころにも蹴つまずくから、道を行くにもおびえてしまうのです。

「アーモンドの花」は咲く時、白っぽいです。これは、白髪のことを言っています。私のヒゲがもうすでに白いです。「皺(しわ)がよる、ほくろが出来る、腰曲る、頭ははげる、白うなる。」仙崖

「いなご」は、体が曲がっていることを表し、確かに年老いた方はゆっくり歩きます。まだ香川県の高瀬町にいた頃、前川さんのおばあちゃんの背中は、完全に曲がっていました。田んぼと畑をやっていたからでしょうか?

「ふうちょうぼくは花を開く」は、どういうことでしょうか?ふうちょうぼくは地中海産の木です。食欲や性欲増強剤のもとになるというので、活力が失せることです。日本でスッポンの役割をするのでしょうか?性欲が少なくなることです。

「銀のひもは切れ」ることは、また死を意味しています。「金の器は打ち砕かれる、水がめは泉のかたわらで砕かれる、滑車が井戸のそばでこわされる」こともそうです。老いるときは、死ぬときだ、と繰り返し、強調しています。「人は永遠の家へと歩いて行く」のです。体の「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る」のです。人は、皆死ぬのです。。。私は、7年間、香川県の高瀬町に住んでいましたが、私たちの北原に毎年数回もお葬式がありました。老人が多かったのです。命と魂の尊さについて考えさせられました。。。でも「あの世」に行く前に、いや「若い日に創造者を覚えよ」です。

ある牧師は、背中を丸めていたおじいさんとおばさんに声をかけました。キップを買って電車に乗るところでした。おじいさんはほとんど黙りこくっていましたが、おばあさんのほうは親切でしたが、がキリスト教会に通っていることを覚えて「ええな、いまどき若いもんくせぇして。」おばあさんの耳が遠いので、牧師は大声で「おばあさんも教会へいらっしゃい。」すると「いやな、足が言うこときかんでなぁ」と言われました。「そんなら、これを読んでください。」と聖書の小冊子差し出すと、「いや、いや目がかすんでな。こまこい字なぞ到底読めんですわ。」それなら、牧師は読みはじめました。「よう聞こえんわさ。」そこで大声で、「これなら聞こえますか」と聞いたら、「聞こえることは聞こえるけんど。もうアタマのほうが老いぼれてあかん。新しいことはわかろうとは思えんわ。」 「あんたの熱心、親切はよーくわかるけど、この年令になって新しい筋道はようわからん。わしら、これでいいのや。このままジジババ二人暮らしで死にますんや。ほんにありがとうさん。」。。。その頃からー年たったら、その牧師が訪ねてみたら、洪水で駅のあたりは押し流されて一変していました。ジジ、ババの家もありませんでした。。。若い日に伝えたら、若い日に造り主とイエス・キリストの尊い福音を覚えてくれたら。。。

どうして「若い日に。。。創造者を覚え」るのですか?死でさえ「空の空」だからです。死を含める「すべては空」だからです。行きている間神抜きで過ごすことは、空しいですが、それ以上に、神抜きで死ぬとより空しいです。ですから、若いうちに、人生に意義を与える創造主に出会うのです。彼が人生に真の喜びを下さいます。小畑進牧師は、こう言っています。「若い日からタップリと創造主のたなごころで、苦楽、悲喜ともに充実した人生を、との勧めでした。

「あなたの若い日に創造者を覚えよ」は、やはり、十字架の愛を覚えさせておきたいのです。造り主は、活きる意義を下さいます。でも、造り主がこの世に来て、その活きる意味を勝ち取って下さいました。私たちの空しさと死と引き換えに、御自身の意義と命を私たちに下さいました。私たちの死ぬべき死を代わりとなって死なれたのは、あの主イエス・キリストです。十字架の恵みを覚えて、信じて、仰いで、この意義と豊かな命を無償で頂けるのです。誰でもですが、特に、若い時に神を覚え知ることによって、真に人生を喜び楽しめるのです。

Monday, September 23, 2013

命がけであなたを救われた方。。。



昔アメリカにある少年がいました。彼は早くに両親をなくし、祖母と二人で住んでいま した。ところが二人が住んでいる家が火事になってしまったのです。祖母は少年を助けようと2階に上がり、炎に巻き込まれ死んでしまいました。取り残された少年は2階から助けを求めました。ところが火の手は大きく、集まった人々もどうにもできません。ある男が家の周りを良く観察すると2階まで届いている鉄パイプを見つけました。彼は焼けただれた鉄パイプを昇りました。男はその少年を見るとしゃがんで背中を見せ言いました。「私につかまりなさい」その背中に少年がしがみつくと、男は再び焼けた鉄パイプを降りてその子を助けたのです。  

数週間後その少年の保護者を決定するために村の集会場で話し合いの時がもたれました。初めに農場主が立ち上がり言いました。「私は大きな農場をもっています。子供がのびのび遊ぶことができます。」次に教師が言いました「私は教師です。家にはたくさんの良い本があります。その子に最高の教育をほどこすことができます。」村一番の金持ちが言いました。「私の家は広く。立派な庭ももっています。家庭教師を雇い、その子に十分 な教育をほどこすだけでなく、おもちゃ、旅行などたくさんの楽しみを与えることができ る。」次に村一番の名主、有力者が言いました。「私の家の子供になることが誰にとって も名誉なことではないでしょうか?」 

しかし、少年は顔を顔を上げません。一人の男が静かに後ろのドアから集会場に入ってきました。男は黙って少年の前に立ちます。少年は顔を上げました。その男の顔に見覚えが あるようですが、思い出せません。男はそっとポケットからその両手を出し、少年に見せ ました。その手のひらにはひどいやけどのために出来た傷跡がありました。その両手は命をかけて、焼けた鉄パイプを上り下りした痕跡を留めていたのです。少年はそれを見ると男に飛びつき、ひしとすがりつきました。 農場主が去っていきました。教師が、金持ちが去っていきました。有力者が去っていき ました。最後に少年と男の二人が残りました。

わたしはこの話しが本当にあったことなのか知りません。しかし、ある真実を的確に指し示しています。私たちの多くが何と教育や暮らし向き、お金、地位などに惑わされ、それらを得る計画によって一生を費やしていくものでしょうか。それらのものは声だかに叫びます。『これこれのものがあれば幸せになれる!それがあなたの希望だ!』と。しかしあなたを焼き尽くす炎から助け出されたお方はいつもその両手をあなたに見せ、あなたに対するご自身の権利、主張を思い起こさせるのです。命がけであなたを救われた方、イエスさまはご自身のいのちを身代わりにし、わたしたちを神の子、神の養子としてくださいます。私たちの足下には地獄の炎が燃えています。そのままであれば、いずれあなたはこの世とともに焼き尽くされてしまうでしょう。しかしあなたのために命をかけて救いに来られ た方がおられるのです。その方にすがりついてください。あなたが真にその方のものとなるのが神の計画なのです。


「彼(イエス・キリスト)はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」聖書・イザヤ53:3−5

Sunday, September 22, 2013

愛の「筋トレ」ゼミ



講師陣内師

安曇野ファミリーチャペルで

小グループで意見交換

「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」聖書・1ヨハネ4:20 

Saturday, September 21, 2013

チャレテーコンサート。。。昨日



豊科近代美術館で

過去の日本のクリスチャンリーダーの像。 
内村鑑三&新渡戸稲造

陣内師は、ある理科の多くのネーズについて語りました。

フルート