Wednesday, October 29, 2014

アンブローケン


今年のクリスマスのあたり、全米で「アンブローケン」(Unbroken)という映画が上映されます。実話で、監督は、アンジェリーナ・ジョリーです。。。

ルイー・ザンペリーニーの生涯は、とても不思議です。第二次世界大戦、47日間太平洋で流されてしまいましたが、日本軍に拾われました。ワタナベと言う軍人にひどく扱われました。映画のタイトルは、直訳で、壊れていない、という意味ですが、くじけない、敵に屈しない、という意味があると思います。実際は、戦争後、彼は、くじけてしまうのです。アル中になるのです。

でも、彼は、回復するのです。大きな伝道集会で、福音を聞くのです。彼はこう言いました。「私は、ひざまずきました。また、人生はじめて主の前で謙りました。私の罪深い生活の赦しをお願いしました。言い訳を言いませんでした。理屈を捨てました。人を責めませんでした。主はこう言いました。『誰でも主の御名に呼び求めるなら救われます。』ですから、その御言葉を信じ、赦しを願い、人生にイエスが入るようにお願いしました。」

残念ながら、映画の中では、彼のアルコール依存やキリストへの改心を入れていません。映画監督は、ルイーの心の臓をはぶいています。でも、彼は、この福音によって、回復し、敵まで赦すのです。後、ワタナベさんに会いに行きますが、拒否されます。赦された者は、赦すのですね。

この映画は、私にとって意味深いです。なぜなら、父は、第二次世界大戦、フィリピンで、日本軍と戦い、憎しみを持ちました。が、上の福音に動かされ、50年近く日本人に仕えました。

残念ながら、今の所、日本では、上映されないようです。ストリーは、あまりにも痛いからでしょうか?

英語予告編:Unbroken Official Trailer #1 (2014) - Angelina Jolie Directed Movie HD - YouTube

すでに本にもなっています。Amazon.com: Unbroken: A World War II Story of Survival, Resilience, and Redemption (9780812974492): Laura Hillenbrand: Books4年間もニューヨークタイムスベストセラです。

Tuesday, October 21, 2014

写真。。。


数週間前、豊かな命教会で語るジャン兄。

私たちを尋ねて来たジョー・バーニーさん(高校同級生)。

安曇野ファミリーチャペルから見る日本アルプスと常念岳。

Friday, October 17, 2014

十字架の意味


1880年(明治13年)4月13日、新島襄は、同志社の全校生徒、教職員、校内にいるすべての者を集めた。朝礼拝のばであった。。。。

新島の口がひらいた。

「このたび、この神さまが建てあげよとされるこの同志社で起こった事件は、本当に残念なことです。。。私は、校長としてどうするべきか神に祈り考えました。そして、ひとつのことがわかったのです。それは、罪は罰せられなければならない、ということです。。。」

「だれかが罰せられるのだろう」と口々に言っているのが、新島の耳にもきこえてきた。

「この学校の責任者は、私、新島襄です。だから、この学校でおこるすべてのできごとの責任が私にあるのは当然です。。。罪はかならず罰されなければなりません。責任者は処罰されなければ、問題の解決はないのです。」

新島は、とつぜん、上着をぬいだ。そしてそれをつくえの上においた。ワイシャツの左のそでをまくりあげた。

「ピシ!ピシ!ピシ!ピシ!」とムチををうちつづけた。

左手は、皮が破れて血が吹き出した。真っ白な新島のワイシャツは血で赤肉が飛び散った。

血があたりをそめ、肉が飛び散る、すざましいばかりのありさまに、皆は、ただ、ぼうぜんと見ているばかりであったが、ついに前のほうにいた生徒たちが、「先生、やめてください。やめてください。先生が悪いのじゃないのです。私たちが悪かったのです。先生、おねがいです。やめてください。」

この事件で、ある学生は、十字架の意味をはじめて知った。身代わりを意味する。イエス・キリストの十字架は、神の子イエス・キリストが人の罪のために死んだという証である。

「神は、罪を知らない方(イエス・キリスト)を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」聖書・2コリント5:21

Wednesday, October 8, 2014

イエスは手を伸ばして、彼にさわり。。。


ある日のこと、アッシジのフランチェスコが馬での野道をすすんでいくと、とつぜん馬がたちどまって動かなくなった。見ると、道ばたにらい病人がうずくまったいるのだった。

いやなにおいが鼻をついて。いままでフランシスコは、らい病人など大きらいだった。馬まで顔をすむけ、すすむのをこばんでいる。フランシスコは、向きをかえて、らい病人から遠ざかろうとした。

そのとき、イエス・キリストがらい病人を愛して、なん人ものらい病人をきよめて、いやされたことを思いだした。

フランシスコは馬からおりて、らい病人に近よっていた、そして財布をとりだして、らい病人ににぎらせた。財布をうける手は指がくされおち、みにくくくずれていた。

フランシスコはその手に口づけした。

じぶんがいやでいやで、早くらい病人のそばからはなれたいのに、自分の思いと反対に、いつのまにか口づけしているのだった。

うみのにおいで胸がむかついた。かれはがたがたふるえながら馬にもどった。無我夢中だった。体はさむ気がして、とり肌だっているのに、心の中に思いがけない平安がやどっていた。

「イエスが山から降りて来られると、多くの群衆がイエスに従った。すると、ツァラアト(ライ病)に冒された人がみもとに来て、ひれ伏して言った。『主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。』イエスは手を伸ばして、彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ』と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。」聖書・マタイ8:1−3

Monday, October 6, 2014

香港のデモとクリスチャン



日本語版のザ・リバティwebによると「香港で民主化を求める抗議デモが連日続いている。そうした民主化運動は、キリスト教徒によって支えられていることを、ウォール・ストリート・ジャーナルWEB版が報じた。」Behind Hong Kongs Democracy Protests, a Quiet Force: Christianity - China Real Time Report - WSJ デモのリーダー三人がクリスチャンです。カトリックの元司教も応援しているそうです。彼らは、祈祷会を持ったり、十字架を掲げたり、聖書を読んだりしています。


確かに、聖書は、人権や民主市議の基盤であります。全ての人は、神に似せて造られたこと、全ての人が神を必要としている罪人であること、全ての人は、キリストを信じ仰ぐ事によって、救われ神の子供に成れること、全ての「隣人を愛する」ことは、確かな基盤と成る。。。中国の本土の弁護士の多くがプロテスタントでもあります。「こうした(共産主義の)自由と民主主義を脅かそうとする動きに対して、キリスト教を学んだ人たちが立ち上がっている。真実の自由や民主主義には、『人間は神によって平等に作られた存在である』という大前提がある。だからこそ、人間を超えた大いなる存在を信じ、自他をともに尊重する心が生まれてくる。」香港の民主化運動を支える宗教的価値観 宗教は自由と民主主義の最後の砦

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」聖書・ローマ3:23−24

Friday, October 3, 2014

私にとって醜怪である。


 「(人間の)自分についてのこと、自分の永遠性、自分の全て、それについての不注意は、私を哀れみではなく、怒りに動かす。これが私を驚かせ、衝撃をあたえる。私にとって醜怪である。」ブレーズ・パスカル

“This carelessness in a matter which concerns themselves, their eternity, their all, moves me more to anger than pity; it astonishes and shocks me; it is to me monstrous.”

「人は、たとい全世界を得ても、いのち(魂)を損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。」イエス・キリスト、マルコ8:36−37

*パスカルは、イエス・キリストのように、人間の自分の見えない魂と心の健康に対する無関心を嘆いている。人は、いろんなものに夢中に成るが、極めて大事なことに無頓着である。心と魂のために、救い主キリストを求めよ。あなたの罪を清めるために十字架上で、御自身の血潮を流されました。その意味と、その体験を求めよ。