Tuesday, August 28, 2018

「ひとかわむけばみんな同じだ」



『暴力団本拠を急襲した警視庁の刑事たちが、証拠品を前にしてシブイ顔になった。没収した譜面「稲川同志会の歌」が、自分たちのよくうたう「機動隊の歌」と似ていたからである。作者を見ると、どちらも同じ川内康範だった。警察と暴力団の歌のフィーリングが似ているのは、どうにもいただけない話しだが、作者は、「ヤクザだって、警察官だって、ひとかわむけばみんな同じだ」といっている。』

心、態度、動機をしっかり見ると、聖なる聖なる生ける神の前では、牧師も、警察官も、医者も、主婦も、オーエルも、サラリーマンも、子供も、おバーちゃんも、皆んな、聖書で言う、「罪人」(つみびと)なのです。皆平等なのです。また、謙虚になるべきです。。。あなたも、私も、そうです。

有名な使徒パウロは、正直に、自分についてこう言いました。聖書・ローマ7:2425私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。。。」

Sunday, August 26, 2018

軽井沢アゲーン


数日、軽井沢を訪ねた。

読書をいっぱい楽しんだ。(軽井沢レトリートセンター

奈帆と軽井沢銀座


ショー記念チャペル。

聖書は、安息をとても大事にしています。「十戒」の大事な一部であります。聖書・出エジプト記20:8「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」あなたは、十分に『安息』を取っていますか?体の安息も大事ですが、心の安息も大事です。1番大事なの安息は、生ける神に安らぐことです。「主よ、あなたは、御自身の為に私たちを造られました。そして、あなたに安らぐまで、私たちの心は安らぐ事は無いのです。」アウグスティヌス

Sunday, August 19, 2018

マイケル・チャン:錦織・圭のコーチ



マイケル・チャンは、17歳で、男子シングルス最年少優勝記録のもち主です。2013年12月、錦織圭のコーチになって、現在も、コーチを務めています。彼は、また熱心なクリスチャンです。

マイケルは、若い頃の自分を振り返りました。一度コートから離れれば、彼は「自分は何者なのか。。。」と苦悩する一人の少年だったと、言いました。「テニス選手としては成長していたが、内面はまだ少年のままだった」と。


教会を訪ねた時、礼拝で語られた「神はすべての出来事に理由をもっている」という言葉が心に刺ささりました。


家に戻ったら、放置していた聖書をむさぼりながら、読みました。『聖書に書かれていることは、すべて真実で正しい』と感じたのです。『私のいのちのために、十字架で死んだキリストの愛はなんと大きいだろうか。何が起きても、キリストは、私を捨てない』と感じたのです。「私の心に来てください。私をあなたの目的にしたがって変えてください」とイエスに祈ました。「私は、その時、イエスを知り、イエスについていく生き方をしようと決断した」と彼は、言いました。


その数ヶ月後のことです。全仏オープンの表彰式の時、栄光を神様に返しました。『主イエス・キリストに感謝します。イエスなしでは、私はナッシング。」その時の思いを語りました。「勝ち負けではないという思いだった。神様が勝利を与えてくれた」と言いました。沖縄タイムス


「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」聖書・ローマ8:28

参考:マイケル・チャン、いのちのことば社

Sunday, August 12, 2018

「救うために」


「私たちは、溺れていいて、どうしようも無い状態です。人が『助けて!助けて!』と叫んで、湖で溺れそうな時に、「どうぞ」と言って、けして泳ぎ方のマニュアルを投げ込みません。イエス・キリストは、泳ぎ方を教えるためではなく、道徳を教えるためではなく、逆に私たちを救うために、代わりに生きて、死ぬために来たのです。水泳教室の先生を送るのではなく、イエスみずから水に飛び込んだのです。そして、命を捧げたのです。キリストは、私たちの先生ではなく、私たちの救い主、いわばヒーローなのです。」ティム・ケラー牧師のメッセージから


聖書・ルカ 19:10「人の子(イエス・キリスト)は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

Monday, August 6, 2018

神からの手紙- 聖書


皆さんはラブレターをもらったことがありますか? 私は出したことはありますが、もらったことがありません。でも、もし誰か素敵な人からラブレターをもらえたなら、一生懸命読むだろうと思います。

でも、もしラブレターをもらった人が、せっかくの手紙を見て「可愛い便せんだな」とか「めずらしい記念切手だな」とか、つまらないところに感心して、大切な中身を真剣に受け取らないとしたら、何と野暮というか、気のきかない人だ、と思うでしょう。

ところが、意外に聖書について同じことをしている人が少なくないのです。

ある人は聖書をよく知っています。ところが、見れども見えず、聞けども聞こえず、「まさに自分のために、自分のことが書いてあるんだ!」ということに気づかないで他人事のようにして読んでいる、野暮な人もたくさんいます。

ですから、お勧めしたいことは、聖書を読むとき、どうか「自分への手紙」として読んでいただきたい、ということです。あなたは聖書を通して、神の声を聞くことができます。

古代の遺跡は私たちに「聖書は真実ですよ」と告げています。宇宙に浮かぶ天体も、「聖書は真実ですよ」と告げています。世界の歴史も、「聖書は真実ですよ」と告げています。あなたの一生について、あなたの幸福について、聖書は本当のこと、大切なこと、信頼すべきことを告げています。どうぞ、聖書のことばを、あなたにあてられた大切な手紙として、お読みになられますように。

「神の目には
あなたは高価で尊い。
神はあなたを愛している。」
聖書のことば

「聖書館」より