Wednesday, May 31, 2017

ジャネット・リン



札幌オリンピックを覚えている私たちは、ジャネット・リン の転ぶ時の笑顔を覚えています。(『学べるニュース』の彼女の「尻もち」と「笑顔」 - YouTube)彼女は、フィギャースケートで銅メダルをとりました。彼女はこう語っています。「1972年の札幌オリンピックに出場した私は金メダルを獲得したくてたまりませんでした。ところが、規定の演技を終わった時点で4位であり、状況は、絶望的となってしましました。私は、最後のフリーの演技をイエス様に捧げました。その時の演技は、あれから何年も、経った今でも、日本の方々の印象に残っているとのことです。最近世界フィギャースケート殿堂入りを果たした際、『主であるイエス・キリストに栄光をお返しするためにスケートをしたのだ』とお話ししました。イエス様は、生きる目的を与えて下さいました。心が打ち砕かれた時に希望を下さいました。そして、競技生活から引退し、スタンティグオベーションが見られなくなった後も、ずっと私は、イエス様の愛を支えとしてきました。」

「語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。」聖書・1ペテロ4:11

Sunday, May 21, 2017

昇天記念式



先週の土曜日父と母の昇天記念会は、とても良かったです。


受付の父と母の写真の下に陛下さんからもらった父の勲章。


音楽、賛美歌、思いで話、軽食を交えた一時。

小岩井牧師による聖書メッセージは、父と母の大好きな聖書のヨハネ3:16から。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」


父と母の灰は、同じ器に。

200年ほど来て下さいました。感謝!

日曜日の地元新聞に記事が

Wednesday, May 17, 2017

映画「ハックソーリッジ」


あのメル・ギブソン監督がまたすごい映画「ハクソー・リッジ を作りました。2017年のアカデミー賞で録音賞と編集賞を受賞しました。6月24日公開。

第2次世界大戦、日本の沖縄で、アメリカ兵デズモンド・ドスは、良心的兵役拒否者でありながらも、兵隊として活躍しました。多くのアメリカ兵が国の為に命を捧げていたので、彼は『命を取らないで、命を救う』衛生兵になりました。彼は、聖書の出アジプト記20章の十戒の「殺してはならない」を文字通りとりました。戦場で、一人の命を助けたら、声を出してこう祈りました。「主よ、もう一人を助けられますように。」彼は、75人以上の兵を助けたそうです。彼は、洞窟にいた時、日本兵をも助けたのです。彼は、一発も撃たずに勲章をもらいました。映画は、実話にもとずいています。

デズモンド・ドスは、命がけで人を救いました。しかし、彼が信じ従っていた救い主イエス・キリストは、実際に多くの人の為に十字架上で命を捧げたのです。イエス・キリストは、ヨハネ10:11でこう言いました。「 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」


* この映画のアクションがとてもリアルですから、子供は、無理だと思います。大人も心の準備が必要です。

追加:教会で聖餐式という聖典を行います。パンとぶどう液を手にし、キリストとその十字架を覚える時です。この例えを使いました。こないだ、息子の2人のジャシュアとシェーンと一緒に「ハックサーリッジ」と言う映画を見ました。正直言ってバイオレンスは、少し多すぎたと思います。しかし、実話にもとずいているデズモンド・ドースの話しはすごいです。第2次世界対戦、彼は、こう決めました。衛生兵として「私は、命をとらない、命を救う。」武器を一切持たなかったのです。沖縄の高台でむごい戦いがありました。『主よ、もう一人。もう一人』を祈り叫びながら、75人以上を命がけで救ったのです。日本人兵も。映画にはないですが、彼は、最後は、負傷して、担架に乗さられ、後ろへ連れて行かれていた途中でした。他の兵隊が負傷していたので「彼を代わりに、担架に乗せろ」と言って、彼は、残ったそうです。彼は、命がけで、人々を救いました。でも、もう一人、イエス・キリストと言う真の救い主がいます。彼は、実際に十字架上で命を捧げたのです。私とあなたのような罪人を救うために。今日は、十字架をまた覚え、主を崇めたいのです。ヨハネ10:10後半〜11、イエス様の言葉です。「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」


Sunday, May 7, 2017

「思いを尽くして。。。」マルコ12:28−34


「忙しい」は『心』と『亡くす』の二つの漢字から来ます。私たちは、しばしば忙しすぎて、本当に考えるひまもなく、心を亡くしてしまうのです。大事な質問を自分の心に、また互いに、問いかける事が出来ないのです。学校が決めつける質問しか考えないのです。仕事、家族、遊びで忙しいのです。。。動物は、止って、考え、自分に問いかける事はしないのです。でも「人間は、考える葦である」と熱心なキリスト者であったブレーズ・パスカルが言いました。能力に限度を持ちながらも、考えなければなりません。マルコ12:30思いを尽くし、あなたの神である主を愛せよ。』。。三つ質問を考えたいのです。人生の目的は何?その目的を達する為の妨げは何?それを解決するものは何?

一、    一、人生の目的は何ですか? 

25年ほど前、広島で伝道していて、私は、教会員の家に食事しに呼ばれました。私は、旦那さんにこう聞きました。「私たちは、なぜ生まれ、学校に行き、仕事するのですか?」大事なことについて考えてほしかったのです。。。私は、皆さんに同じ質問を問いかけます。

最近、日本では、欧米の価値観に影響され、”My Way,(我が道)を行く人が増えています。目的は、自分の幸せ“My Happiness!”です。でも、日本人の伝統的な目的は、自分の『家』の幸福でした。自分の幸福ではなく、みんなの幸福。昔、日本は、大和国、大きな和の国と呼ばれました。西暦650年頃から、奈良や京都で天皇の下で統一がはじまりました。藤原家によって操られながらも。後の1180年頃、鎌倉幕府の支配は、はじめとても良かった面がありました。間もなく、北条家という陰によって支配されましたが、統一は、ある程度ありました。でも、後の1330年頃、足利将軍の求心力が弱まりました。戦国時代の頃から、日本は、地域の権力者によって分断され、個性の強いリーダーが多く立ち上がりました。東北の伊達政宗、越後の上杉謙信、隣の甲斐の国の武田信玄。1560年頃、信長、秀吉、家康がまた日本を統一しました。徳川時代は、儒教の影響によって、和(総合依存)が中心になりました。士農工商、参勤交代などによって強制的にまとめていきました。でも、1850年頃、ペリーの来日によって、欧米の表面的な文化がけっこう入って来ました。ても、「和魂洋才」が大事にされ、西洋からの優れた学問・知識・技術などを活用しながらも、日本の古来の精神を大切にさせていく事が大事にされます。和魂は、和の魂。やはり自分の和、自分の家です。自分のいわゆる部族を第一に尊ぶ事が人生の目的になっていくのです。(西洋の我がままな個人主義にも問題があります。和やグループには、大きなプラスもあります。)が、第2次世界大戦、過った方向に向かったのに、国家(国の家)の為に虚しく死んで行くのです。この場合「長い者に巻かれ」ちゃったのです。自分の家や和に入っていない人はどうなるのでしょうか?第2次世界大戦、そのような人、(中国人、韓国人、クリスチャン)を排除しました。

でも、聖書は、違います。私たち人間は、天地宇宙を造られた神に造られました。私たちは、生ける神からいろんな恵みを頂いています。その方を愛する事は、神が造った人を愛することは、当たり前なはずです。愛すことが人生の目的です。イエス・キリストは、聖書のマルコ12:30−31でこう言いました。「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」これは聖書全体から来る教えです。これが人生の目的です。隣近所の方、自分の妻・夫・子供、人種の違う人敵まで愛するのです。。。このように愛していますか?全ての恵みを下さる神を「心を尽くし」て愛していますか?あなた中心ではなく、いわゆる「家」中心だけでもなく、神中心で、いわゆる「隣人」中心です。これが人生の目的です。

二、その目的を妨げているものは何ですか? 人間や世の中の問題は何ですか?

最近、日本人をもけっこう含めていますが、欧米人は『自分以外の全ての人に問題ある。私の権利、人権を妨げているのは他だ』と言います。愛の妨げになっているのは『私以外の皆』と言ってしまいます。ですから、自分を裁くよりも、他人を裁くのです。。。伝統的には、日本では、自分の和に入っていない全て者が家の幸福を妨げている、と言われています。例えば、田舎の高瀬町に住んでいた時、回りのお嫁さん達は、同じ日本人なのに、外から来たから『よそ者』のように感じさせられていたようです。『家』の妨げになる者は、問題は『よそ者』でした。

聖書は、違います。聖書では、問題は『私である』と書いてあります。あの有名な伝道師パウロは、自分についてこう言いました。ローマ7:24前半「私は、ほんとうにみじめな人間です。。。」愛の妨げになる者は、他でもなく私、自分、己です。。。英国の有名な新聞が質問を出しました。「この世界の何が間違っているのか?」この問いに対して、クリスチャンの作家、評論家であるGK。チェスタトンは、このような返事を出しました。「記者殿、私です。敬具。GK・チェスタトン。」。。神と人を愛さないのは、私です。

神への愛を考えましょう。子供は、親から色々恵まれています。愛情、家、服、食べ物、教育などなど。当たり前のことではないです。が、その子供は『その親のことは知らない』と言えば、私たちは、すぐ『親不孝』と言います。。。でも、人間は、父なる神さまからいろいろ頂いています。が、基本的に無視してしまいます。神への愛の妨げになっているのは、私自身です。

塩狩峠という小説で三浦綾子は、罪と救いを例えます。主人公信夫は、信仰告白を書くのです。『わたくしは、自分が人よりもまじめな人間であるという自負を捨てることができませんでした。たまたま、東京から札幌に来た年の冬、寒い街頭で路傍伝道をしている伊木(いぎ)という先生の話をわたくしは聞きました。その時、大きな感動を受けたわたくしは、自分はキリスト信者になってもよいと思いました。。。しかしその時伊木先生は、あなたの罪がイエス・キリストを十字架につけたことをみとめますかといわれました。しかし、わたくしは、イエス・キリストを十字架につけるほどの罪はないと思いました。わたくしは至極(しごく、この上もない)まじめな人間であると自負していたからです。ところがその直後、先生はわたくしに聖書の言葉を、ただひとつでもて徹底的に実行してごらんなさいといわれました。わたくしは良きサマリヤ人のところを読み、自分ならこのような不人情なことはするまい、自分なら良きサマリヤ人になれるのではないかと、うぬぼれました。そして、ある友人のために、ひとつ徹底的に真実な隣人になろうと思いました。わたくしは彼の隣人になるために、さまざまな損失を承知の上で、その友人のいる旭川に参りました。そして、彼はわたくしを受け入れくれませんでした。わたくしは彼を非常に憎みました。あのサマリヤ人のように、山道に倒れている、生きるか死ぬかの病人を一生懸命介抱しているのに、なぜどなられるのか、わたくしにはわかりませんでした。わたくしは彼を救おうとしました。だが彼はわたくしの手を手荒く払いのけるのです。彼が払いのけるたびに、わたくしは彼を憎み、心の中で罵り(ののしり)ました。そしてついには、わたくしの心は彼への憎しみで一ぱいに満たされてしまいました。そして、わたくしはやっと気がついたのです。毎日毎日が不愉快で、わたくしは神に祈りました。その時にわたくしは神の声を聞いたのです。お前こそ、山道に倒れている重傷の旅人なのだ。その証拠に、お前はわたしの助けを求めて叫びつづけているのではないか、と。わたくしこそ、ほんとうに助けてもらわなければならない罪人だったのです。そして、あの良きサマリヤ人は、実に神の独り子、イエス・キリストであったと気がついたのです。それなのに、わたくしは傲慢にも、神の子の位地に自分を置き、友人を見下していたのでした。いかに神を認めないということが、大いなる罪であるかをわたくしは体験いたしました。そして、自分のこの傲慢の罪が、イエスを十字架につけたことを知りました。』。。問題は、他ではなく「私」です。「自分のこの傲慢の罪」です。罪を認め悔いましょう。

三、    解決は何ですか? 言い換えたら、私たちを救うのは誰ですか?私たちは、どのようにして愛せるようになるのですか?

欧米では、『自分で自分を救う』と思ったりするのです。昔から、日本でも「自力」と言います。でも、間もなく、自分の限度が分かってくるのではないでしょうか?。。。伝統的に日本にある考えは、総合依存です。私たちの回りの人に頼りながら、互いに助け合って、救われる、と思うのです。確かにある面で、人から力を借りたり、教わったり、支え合ったりすることもとても大事なことです。

聖書は、こう教えています。自分は、究極的には、自分を救えないだけではなく、他人も、結局、私を根本的には救えないのです。家族も、先生も、友達も、モーセも、マリアも、パウロも、モハメットも、孝子も、釈迦も救えないのです。。。昔、中国で儒教の先生がクリスチャンになったそうです。その弟子たちが来て「先生はいつでも深く考えて行動するのに、なんですか!あの毛唐がきて、いっぺん説教を聞いただけでクリスチャンになるなんて。それは聞こえません」と抗議を申しこみました。そこで先生は次のような例えをしました。「私は野原を歩いて、足を滑らせて野中の井戸に落ちてしまった。“助けてくれー”と叫んでいると、孔子が通りかかって声をかけてくれた。『お前はどうしてこんなところにいるのかね。』『野原を勝手に歩いていたもんですからおこっちたのです。』『それはいかん。ちゃんと人の通る道がある。道でないところをお前が歩いたから、こういうことになったんじゃ。以後気をつけれよ。ちゃんと人間の道を歩けよ』と教えて下さいました。けれども今、野中の井戸に落ちている私は、そんなことは千も万も承知しています。この井戸から出してくださる人が欲しいのです。また“助けてくれー”と叫んでいると、足音が聞こえてきた。やれやうれしやと思ってみると、お釈迦さんでした。そしてまた『どうしてお前は落ちたのか。ああかわいそうなことをしたものよ。なんでも気をつけないとこんな目にあうぞ。助けてつかわすから手を出しなさい』とおしゃいました。手をのばしたら、お釈迦さんも手をのばしてくださまたが、どうしても一尺ばかりたりながったのです。そこでお釈迦さんは『さてさてお前は業が深いのう。前世の因縁じゃ、あきらめよ』とおっしゃって、向こうへ行ってしまいました。。。あきらめきれないので、“助けてくれー”と、なおも叫んでいました。するとこんどはイエス・キリストが来ました。いやなやつが来たな、と思って、いやな顔をしていたけれども、なにせ、だれでもいいから、助けてむらおうと思って、手をのばしたところが、どうしてもたりないのです。そうしたら、そのキリストが井戸の中にとびこんで来て、しゃがんで『私の肩にのりなさい』というから、その肩に乗ったら、その肩の足をサーッと押しあげて外へ出してくれた。『もう二度と来るんじゃないよ』と言ってくださいました。「だから私は、キリスト教を信じたんだよ。」。。聖書・ルカ19:10「人の子(キリスト)は、失われたものを捜して救うために来たのである」とあります。人は、本当の意味では、私たちの愛さない罪から私たちを助けられないのです。生ける神キリストのみが私を救えるのです。この方によってのみ、愛する者へと変えられるのです。

究極的には、人は、頼りないのです。自分は、そうですが、他人も。自分も、他人も、愛に飢えて、愛が必要で、愛を教わりたいのです。全ての根源である主イエス・キリストは、十字架上で、私たちの罪を負い、代わりに裁かれました。ここに私たちが切望し、必要としている、究極的な、真の愛があるのです。また、主イエスは、三日後、墓からよみがえりました。命の根源です。この方こそ私たちの救い主、助けぬし、愛の源です。先ず、最初に、初めの一歩として、この恩方にすがり、仰ぎ、無償の愛を受け入れるのです。。。私は、温泉が好きです。白骨温泉、扉温泉、浅間温泉。どっぷり浸かりますね。この神の十字架の愛にどっぷり浸かり、毎日のように思い巡らし、味わうのです。これによって、神を愛し、隣人を愛するのです。

聖書のマルコ12:30−31に戻るのです。目的は、変わらないのです。でも、今は、真の神の愛とういう原動力があるのです。ですから「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」勇気をもって愛という目的を実践するのです。。。父は、先週の火曜日、天に召されました。第2次世界大戦、父は、フィリピンで日本軍と戦って、憎んでいました。クリスチャンでしたが。でも、戦争後、大学中、聖書・ヨハネ3:16の「神は世を愛された」という言葉に注目しました。神の愛されている「世」は、日本をも含むと気づかされました。そした、父は(母も)勇敢な愛を持って、47年間ほどこの松本で日本人に仕えて来ました。。。無償に愛されているゆえに、造り主への愛、「隣人」ヘの愛を目指しましょう。

パスカルは「人間は考える葦である」と書きました。限度を感じながらも、「思い尽く」すのです。三つ質問を『思い』考えはじめました。時間をかけて続けて考えて下さい。人生の目的は何、誰?目的の妨げは何、誰?解決は何、誰?あなたは、どう思い、考え、答えますか?

Thursday, May 4, 2017

父と母を敬う


父母のMemorial Service(記念会)は、5月20日(土)2時から(食会は3:30頃から)行われます。場所は、南松本のJA虹のホール芳川(松本市芳川村井町小原459−7)。父母を共に覚えたいかたは、どなたでも歓迎します。連絡は、0263−28−9836。


父は、今週の火曜日、4月25日、天に召されました。母は、2年半ほど前、天に召されました。2人を心から敬います。子供の頃、聖書・エペソ6:1−3を暗記させられました。「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。『あなたの父と母を敬え。』これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、『そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする』という約束です。」母は、半分冗談でしたが、こう言っていました。「長く生きたいか?ジャー、従え。」ですから、今、私は、2人を覚える事によって、彼らの神を誉めることによって、敬いたいです。

両親は、広く人々に仕えました。2人の情熱は、主とその教会に対して大きかったでした。松本平で6つの教会の開拓に協力しました。豊かな命聖書書店をはじめました。長野県中で聞かれたラジオ番組(SBC)をもっていました。教会と直接関係ないことにもたずさわりました。小さい子供から大学生の数えきれない英会話の生徒をもっていました。父は、有明高原寮と松本少年刑務所で聖書を教えました。この奉仕があって、陛下さんから勲章をもらいました。母は、他の多くの集いを含めて、2000以上のPTAで講演しました。教育や家族だけではなく、差別やビジネスについても語りました。父と母の仕える心を見て、尊敬しています。

しかし、両親は、何よりも、2人の主イエスを讃えることによって、彼らを尊敬して欲しいと私は思うのです。もう一つ暗記させられた聖書の箇所は、あの有名なヨハネ3:16でした。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」両親の神、また私の神は、人格の無い神ではないのです。神は「世を愛された」のです。創造主の愛は、人格的です。その愛は、ただの言葉(口先)や哲学や道徳ではなく、神の尊い一人子、イエス・キリストという人格的なお方です。御子は、十字架上で私たちが死ぬべき死を代わりとなって死んで下さいました。御子は、復活しました。私たちがただ信じ仰ぎすがることによって命が与えられます。死後の命だけではなく、御子の死と命によって、私たちは、素晴しい希望を持って、今も真に生きることが出来るのです。私たちの恵み深い神ほど素晴しい、尊敬に値するお方はいるでしょうか?私は、父母を敬いながらも、今、それ以上に、生ける神を畏れ誉めたいです。

第2次世界大戦中、私の父は、フィリピンで、日本軍と戦いました。言うのは辛いですが、父は、日本人を憎んでいました。戦争後、大学中、上の聖書の箇所に、父の心が向けられました。「神は、世を愛された。」世は、憎んでいる敵を含めるのだ、と思ったのです。それで、父(母も)は、50年近く、日本の松本で、元敵であった方々に真実に仕えました。2人は、この世にはいないですから、私は寂しいです。が、このように人を愛する心を両親に与えた主を特に畏れ敬います。