Sunday, May 7, 2017

「思いを尽くして。。。」マルコ12:28−34


「忙しい」は『心』と『亡くす』の二つの漢字から来ます。私たちは、しばしば忙しすぎて、本当に考えるひまもなく、心を亡くしてしまうのです。大事な質問を自分の心に、また互いに、問いかける事が出来ないのです。学校が決めつける質問しか考えないのです。仕事、家族、遊びで忙しいのです。。。動物は、止って、考え、自分に問いかける事はしないのです。でも「人間は、考える葦である」と熱心なキリスト者であったブレーズ・パスカルが言いました。能力に限度を持ちながらも、考えなければなりません。マルコ12:30思いを尽くし、あなたの神である主を愛せよ。』。。三つ質問を考えたいのです。人生の目的は何?その目的を達する為の妨げは何?それを解決するものは何?

一、    一、人生の目的は何ですか? 

25年ほど前、広島で伝道していて、私は、教会員の家に食事しに呼ばれました。私は、旦那さんにこう聞きました。「私たちは、なぜ生まれ、学校に行き、仕事するのですか?」大事なことについて考えてほしかったのです。。。私は、皆さんに同じ質問を問いかけます。

最近、日本では、欧米の価値観に影響され、”My Way,(我が道)を行く人が増えています。目的は、自分の幸せ“My Happiness!”です。でも、日本人の伝統的な目的は、自分の『家』の幸福でした。自分の幸福ではなく、みんなの幸福。昔、日本は、大和国、大きな和の国と呼ばれました。西暦650年頃から、奈良や京都で天皇の下で統一がはじまりました。藤原家によって操られながらも。後の1180年頃、鎌倉幕府の支配は、はじめとても良かった面がありました。間もなく、北条家という陰によって支配されましたが、統一は、ある程度ありました。でも、後の1330年頃、足利将軍の求心力が弱まりました。戦国時代の頃から、日本は、地域の権力者によって分断され、個性の強いリーダーが多く立ち上がりました。東北の伊達政宗、越後の上杉謙信、隣の甲斐の国の武田信玄。1560年頃、信長、秀吉、家康がまた日本を統一しました。徳川時代は、儒教の影響によって、和(総合依存)が中心になりました。士農工商、参勤交代などによって強制的にまとめていきました。でも、1850年頃、ペリーの来日によって、欧米の表面的な文化がけっこう入って来ました。ても、「和魂洋才」が大事にされ、西洋からの優れた学問・知識・技術などを活用しながらも、日本の古来の精神を大切にさせていく事が大事にされます。和魂は、和の魂。やはり自分の和、自分の家です。自分のいわゆる部族を第一に尊ぶ事が人生の目的になっていくのです。(西洋の我がままな個人主義にも問題があります。和やグループには、大きなプラスもあります。)が、第2次世界大戦、過った方向に向かったのに、国家(国の家)の為に虚しく死んで行くのです。この場合「長い者に巻かれ」ちゃったのです。自分の家や和に入っていない人はどうなるのでしょうか?第2次世界大戦、そのような人、(中国人、韓国人、クリスチャン)を排除しました。

でも、聖書は、違います。私たち人間は、天地宇宙を造られた神に造られました。私たちは、生ける神からいろんな恵みを頂いています。その方を愛する事は、神が造った人を愛することは、当たり前なはずです。愛すことが人生の目的です。イエス・キリストは、聖書のマルコ12:30−31でこう言いました。「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」これは聖書全体から来る教えです。これが人生の目的です。隣近所の方、自分の妻・夫・子供、人種の違う人敵まで愛するのです。。。このように愛していますか?全ての恵みを下さる神を「心を尽くし」て愛していますか?あなた中心ではなく、いわゆる「家」中心だけでもなく、神中心で、いわゆる「隣人」中心です。これが人生の目的です。

二、その目的を妨げているものは何ですか? 人間や世の中の問題は何ですか?

最近、日本人をもけっこう含めていますが、欧米人は『自分以外の全ての人に問題ある。私の権利、人権を妨げているのは他だ』と言います。愛の妨げになっているのは『私以外の皆』と言ってしまいます。ですから、自分を裁くよりも、他人を裁くのです。。。伝統的には、日本では、自分の和に入っていない全て者が家の幸福を妨げている、と言われています。例えば、田舎の高瀬町に住んでいた時、回りのお嫁さん達は、同じ日本人なのに、外から来たから『よそ者』のように感じさせられていたようです。『家』の妨げになる者は、問題は『よそ者』でした。

聖書は、違います。聖書では、問題は『私である』と書いてあります。あの有名な伝道師パウロは、自分についてこう言いました。ローマ7:24前半「私は、ほんとうにみじめな人間です。。。」愛の妨げになる者は、他でもなく私、自分、己です。。。英国の有名な新聞が質問を出しました。「この世界の何が間違っているのか?」この問いに対して、クリスチャンの作家、評論家であるGK。チェスタトンは、このような返事を出しました。「記者殿、私です。敬具。GK・チェスタトン。」。。神と人を愛さないのは、私です。

神への愛を考えましょう。子供は、親から色々恵まれています。愛情、家、服、食べ物、教育などなど。当たり前のことではないです。が、その子供は『その親のことは知らない』と言えば、私たちは、すぐ『親不孝』と言います。。。でも、人間は、父なる神さまからいろいろ頂いています。が、基本的に無視してしまいます。神への愛の妨げになっているのは、私自身です。

塩狩峠という小説で三浦綾子は、罪と救いを例えます。主人公信夫は、信仰告白を書くのです。『わたくしは、自分が人よりもまじめな人間であるという自負を捨てることができませんでした。たまたま、東京から札幌に来た年の冬、寒い街頭で路傍伝道をしている伊木(いぎ)という先生の話をわたくしは聞きました。その時、大きな感動を受けたわたくしは、自分はキリスト信者になってもよいと思いました。。。しかしその時伊木先生は、あなたの罪がイエス・キリストを十字架につけたことをみとめますかといわれました。しかし、わたくしは、イエス・キリストを十字架につけるほどの罪はないと思いました。わたくしは至極(しごく、この上もない)まじめな人間であると自負していたからです。ところがその直後、先生はわたくしに聖書の言葉を、ただひとつでもて徹底的に実行してごらんなさいといわれました。わたくしは良きサマリヤ人のところを読み、自分ならこのような不人情なことはするまい、自分なら良きサマリヤ人になれるのではないかと、うぬぼれました。そして、ある友人のために、ひとつ徹底的に真実な隣人になろうと思いました。わたくしは彼の隣人になるために、さまざまな損失を承知の上で、その友人のいる旭川に参りました。そして、彼はわたくしを受け入れくれませんでした。わたくしは彼を非常に憎みました。あのサマリヤ人のように、山道に倒れている、生きるか死ぬかの病人を一生懸命介抱しているのに、なぜどなられるのか、わたくしにはわかりませんでした。わたくしは彼を救おうとしました。だが彼はわたくしの手を手荒く払いのけるのです。彼が払いのけるたびに、わたくしは彼を憎み、心の中で罵り(ののしり)ました。そしてついには、わたくしの心は彼への憎しみで一ぱいに満たされてしまいました。そして、わたくしはやっと気がついたのです。毎日毎日が不愉快で、わたくしは神に祈りました。その時にわたくしは神の声を聞いたのです。お前こそ、山道に倒れている重傷の旅人なのだ。その証拠に、お前はわたしの助けを求めて叫びつづけているのではないか、と。わたくしこそ、ほんとうに助けてもらわなければならない罪人だったのです。そして、あの良きサマリヤ人は、実に神の独り子、イエス・キリストであったと気がついたのです。それなのに、わたくしは傲慢にも、神の子の位地に自分を置き、友人を見下していたのでした。いかに神を認めないということが、大いなる罪であるかをわたくしは体験いたしました。そして、自分のこの傲慢の罪が、イエスを十字架につけたことを知りました。』。。問題は、他ではなく「私」です。「自分のこの傲慢の罪」です。罪を認め悔いましょう。

三、    解決は何ですか? 言い換えたら、私たちを救うのは誰ですか?私たちは、どのようにして愛せるようになるのですか?

欧米では、『自分で自分を救う』と思ったりするのです。昔から、日本でも「自力」と言います。でも、間もなく、自分の限度が分かってくるのではないでしょうか?。。。伝統的に日本にある考えは、総合依存です。私たちの回りの人に頼りながら、互いに助け合って、救われる、と思うのです。確かにある面で、人から力を借りたり、教わったり、支え合ったりすることもとても大事なことです。

聖書は、こう教えています。自分は、究極的には、自分を救えないだけではなく、他人も、結局、私を根本的には救えないのです。家族も、先生も、友達も、モーセも、マリアも、パウロも、モハメットも、孝子も、釈迦も救えないのです。。。昔、中国で儒教の先生がクリスチャンになったそうです。その弟子たちが来て「先生はいつでも深く考えて行動するのに、なんですか!あの毛唐がきて、いっぺん説教を聞いただけでクリスチャンになるなんて。それは聞こえません」と抗議を申しこみました。そこで先生は次のような例えをしました。「私は野原を歩いて、足を滑らせて野中の井戸に落ちてしまった。“助けてくれー”と叫んでいると、孔子が通りかかって声をかけてくれた。『お前はどうしてこんなところにいるのかね。』『野原を勝手に歩いていたもんですからおこっちたのです。』『それはいかん。ちゃんと人の通る道がある。道でないところをお前が歩いたから、こういうことになったんじゃ。以後気をつけれよ。ちゃんと人間の道を歩けよ』と教えて下さいました。けれども今、野中の井戸に落ちている私は、そんなことは千も万も承知しています。この井戸から出してくださる人が欲しいのです。また“助けてくれー”と叫んでいると、足音が聞こえてきた。やれやうれしやと思ってみると、お釈迦さんでした。そしてまた『どうしてお前は落ちたのか。ああかわいそうなことをしたものよ。なんでも気をつけないとこんな目にあうぞ。助けてつかわすから手を出しなさい』とおしゃいました。手をのばしたら、お釈迦さんも手をのばしてくださまたが、どうしても一尺ばかりたりながったのです。そこでお釈迦さんは『さてさてお前は業が深いのう。前世の因縁じゃ、あきらめよ』とおっしゃって、向こうへ行ってしまいました。。。あきらめきれないので、“助けてくれー”と、なおも叫んでいました。するとこんどはイエス・キリストが来ました。いやなやつが来たな、と思って、いやな顔をしていたけれども、なにせ、だれでもいいから、助けてむらおうと思って、手をのばしたところが、どうしてもたりないのです。そうしたら、そのキリストが井戸の中にとびこんで来て、しゃがんで『私の肩にのりなさい』というから、その肩に乗ったら、その肩の足をサーッと押しあげて外へ出してくれた。『もう二度と来るんじゃないよ』と言ってくださいました。「だから私は、キリスト教を信じたんだよ。」。。聖書・ルカ19:10「人の子(キリスト)は、失われたものを捜して救うために来たのである」とあります。人は、本当の意味では、私たちの愛さない罪から私たちを助けられないのです。生ける神キリストのみが私を救えるのです。この方によってのみ、愛する者へと変えられるのです。

究極的には、人は、頼りないのです。自分は、そうですが、他人も。自分も、他人も、愛に飢えて、愛が必要で、愛を教わりたいのです。全ての根源である主イエス・キリストは、十字架上で、私たちの罪を負い、代わりに裁かれました。ここに私たちが切望し、必要としている、究極的な、真の愛があるのです。また、主イエスは、三日後、墓からよみがえりました。命の根源です。この方こそ私たちの救い主、助けぬし、愛の源です。先ず、最初に、初めの一歩として、この恩方にすがり、仰ぎ、無償の愛を受け入れるのです。。。私は、温泉が好きです。白骨温泉、扉温泉、浅間温泉。どっぷり浸かりますね。この神の十字架の愛にどっぷり浸かり、毎日のように思い巡らし、味わうのです。これによって、神を愛し、隣人を愛するのです。

聖書のマルコ12:30−31に戻るのです。目的は、変わらないのです。でも、今は、真の神の愛とういう原動力があるのです。ですから「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」勇気をもって愛という目的を実践するのです。。。父は、先週の火曜日、天に召されました。第2次世界大戦、父は、フィリピンで日本軍と戦って、憎んでいました。クリスチャンでしたが。でも、戦争後、大学中、聖書・ヨハネ3:16の「神は世を愛された」という言葉に注目しました。神の愛されている「世」は、日本をも含むと気づかされました。そした、父は(母も)勇敢な愛を持って、47年間ほどこの松本で日本人に仕えて来ました。。。無償に愛されているゆえに、造り主への愛、「隣人」ヘの愛を目指しましょう。

パスカルは「人間は考える葦である」と書きました。限度を感じながらも、「思い尽く」すのです。三つ質問を『思い』考えはじめました。時間をかけて続けて考えて下さい。人生の目的は何、誰?目的の妨げは何、誰?解決は何、誰?あなたは、どう思い、考え、答えますか?

No comments:

Post a Comment