Wednesday, December 13, 2017

聖書・ガラテヤ2:10「貧しい人を顧みるように」



ガラテヤの信徒への手紙2:10を読みましょう。

世界で最も恵まれている国の一つは、日本です。でも、厚生労働省の2016年国民生活調査によると「日本全体でも子どもたちの7人に1人が『貧困』。
ひとり親家庭では、2人に1人に及ぶ。」格差が進んでいる中で、この課題が増えると思います。何回も、私たちの教会にホームレスの方が来て、お金をお願いしました。アメリカなどでは、教会関係の慈善団体のミッションが多くあります。日本の都会には、救世軍などがあります。。。私たちは、どう応えれば良いでしょうか?先ず、心構えです。『主の恵みを受けた人は、恵みを表すのです。』ガラテヤ書のポイントは、キリストの恵みです。恵まれた人は、物質的に恵まれてない人に恵みを示すのは当然です。
あるアメリカの教会の長老が道で物乞いをしていた方をバカにしていました。私は、驚きました。教会のリーだが!?時々『強いものが生き残る』という進化論的な考え方がクリスチャンの心の中にも入って来て、「彼が頑張らないから、そうなるのだ」と思ってしまうのです。。。13年ほど前、私たちダビデ家は、アメリカに行って時、仕事がなかなか見つからたなかったのです。メディケア(国の医療的援助)を受けなければ成らないほどでした。辛かったです。。。でも、また、私たちの子供が病気に成った時、一番助けた方は、退職したギブソン医師でした。子供をチックし、処方箋なで書いて下さいました。彼の奥さんは、奈帆をコストコに連れて行って下さって、買い物を全て払って下さいました。イエスの恵みを体験した2人は、恵みを表したのです。
1.ガラテヤ2:10の文脈、恵みの共同体ですから、「貧しい人を顧みる」のです。教会は、個人主義ではないです。確かに、ガラテヤ1章後半、パウロは、個人的に直接神の啓示を受けました。でも、パウロは『My Way』ではなかったです。個人も大事ですが、共同体も大事です。ですから、2章前半、パウロは、エルサレムに行き、使徒達に受け入れられました。エルサレムの教会の主なリーダーは、7節後半「理解してくれました。」両者の任務に違いがありながらも、キリストにあって一つであったのです。9節「そして、私に与えられたこの恵みを認め、。。。右手を差し伸べました。」神さまとの縦の関係も大事ですし、横の人との関係も大事です。両方、個人も、教会も、大切なのです。。。そして、10節、横の関係の中の大事な一つとして「貧しい人も大事にしなさい。国境と人種を超えて、大事にし、施しなさい」と言っているのです。
2.(10節)恵みが優先順位ですから、「貧しい人を顧みる」のです。ここの「貧しい人たち」は、主にユダヤ系クリスチャンでした。1世紀のユダヤにいた貧しいキリスト者は、飢餓、迫害、反乱と戦争を体験していたのです。イスラエルは、もともと貧しい地域だったのです。人口が多すぎたのです。巡礼者でいっぱいでした。1000年以上、畑のために、森を伐採していました。石が多く、土が良くなかったそうです。ニーズは、大きかったのです。。。7節、ペテロは、両方のゴールには、違いがありながらも、一致して欲しいことがあったのです。それは、先ず、福音でした。でも、それだけではなく、「貧しい人たちをいつも顧みる」ことでした。。。「いつも」は、常ある教会の志しを示しています。優先順位です。。。パウロ自身も、これをただ心の隅に置いていたのではなく、10節後半「大いに努めて来たところ」だったのです。口先で言ったのではなく、聖書を読むと、パウロは、実践した記録が多くあります。
マルテン・ルターはこう言いました。「福音を告げる後に、真実な忠実な牧師の任務と責任は、貧しい方を心に留めることです。」小岩井牧師は「3・11」の後、何回も、釜石に行きました。でも「先生、この教会をケアして欲しい」と疑問を投げかけられたことはなかったでしょうか?でも、キリストの恵みを頂いた人は、その恵みを与えるのです。母は「部落民問題」の集いで話したことを覚えています。父は、有明高原寮や松本少年刑務所で聖書の話しをしました。小岩井先生は、今も行っています。先生は「虹の村」で福音をシェアしています。

3.聖書全体がこの恵みを教えているから、「貧しい人を顧みる」のです。9節、教会のリーダーの「ヤコブ」は、ヤコブ書を書いた使徒でした。そのヤコブ書に『必要のある人を助けること』を強く促していました。。。こないだ神田英輔先生がこう言っていました。旧約聖書のイスラエル人は「けして畑を隅々まで、刈り入れてはならない。貧しい人々が拾えるように置いて行きなさい」と命じられました。。。申命記15:7−8「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みのうちででも、あなたの兄弟のひとりが、もし貧しかったなら、その貧しい兄弟に対して、あなたの心を閉じてはならない。また手を閉じてはならない。進んであなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。」。。詩篇41:1「幸いなことよ。弱っている貧しい者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。」。。このガラテヤ6:10「ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。」他もいっぱいあります。キリストを救い主を、恵みによって、信じている全ての者は、生活の困難の人を助ける義務と責任があります。教会が必要のある人が助けを得られるような集いにするのです。

4.エペソ2:1−10、恵みですから、値しなくても、「貧しい人を顧みる」のです。貧しい人に与えることは、神を真似ることでもあるのです。造り主は、「驚くばかり恵み」を私たちのような値しない人に無償で与えています。それと似て、例えば、その人は、それに値しなくても、私たちの献金と行いが物質的に恵まれてない人々に与えるのです。エペソ2:3「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(4節)しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、6節) キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」。。ロバート・マリー・マックシェーン牧師は、こう書きました。「愛するクリスチャンよ、あなたがたは、夜も昼も真の葡萄の木(キリスト)の枝になれるように祈ります。あなたがたは、キリストのかたちに造り変えられるように祈ります。ならば、キリストのように施しをするべきです。「キリストは、富んでいたのに、あなたがたのために貧しくなられました。」(ある方は、こう反対するでしょう。)反対第1、「私のお金は自分のもの。」応え:キリストは『私の血は私のものだ。私の命は私のものだ』と言えた可能性があります。だったら、私たちは、どうなったいたでしょうか?反対第2「貧しい人は値しない。」答え:キリストは『彼らは、罪深い者で、こんな人のために命を与えましょうか?良い天使に与えましょう。』しかし、そうしませんでした。100匹をおいて、失われた1匹を見つけました。値しない者のために血潮を与えました。反対3、「貧しい人は、それを悪用します。」答え:キリストは、同じことを言えたでしょう。さらにより的確に。キリストは、多くの人が御自身の血を踏みにじることを知っていました。ほとんどがそれを軽蔑することを。その血によった罪を犯す言い訳にすることを。(恵みだから好きしても良い)それでも、血潮を流されたのです。ああ、私の愛するクリスチャン、キリストのように成るのなら多く与えなさい、常に与えなさい、自由に与えなさい、罪深い貧しい人たちに、感謝しない、値しない人たちに。。。キリストは、栄光に満ち、幸せです。私は、お金を願っているのではなく、あなたの幸せです。キリスト御自身の言葉を覚えなさい。『受けるよりも、与えることが幸いである。』」。。恵まれたものは、恵みを示すのです。当然です。

.2コリント8:9、恵みを原動力にして、「貧しい人を顧みる」のです。豊かな命キリスト教会は、毎年のクリスマス、協立病院でクリスマス会を行います。でも、共立病院で、常に月4回ほど、貧しい子供達の塾を行っています。年に数回、炊き出しを行っていまです。常に手を差し伸べることも必要です。でも先に、心が大事です。『主の恵みを受けた人は、恵みを表すのです。』ガラテヤ書のポイントは、キリストの恵みです。恵まれているから、感謝しているから、物質的に恵まれてない人に恵みを示すのです。でなければ、あなたは、くたびれます。自分の慈善は、あまりにも足りないこと、慈善の動機が全くずれていることを感じ、自分を責めはじめます。他の人を愛する事によって、神の愛を受けようとするのです。でも、キリストの愛に感動して、いわゆる『溢れたコップ』(英”overflowing cup”)でするのです。2コリント8:9「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」この恵みに感動して、恵みを示すのです。

私たちは、福音をけして妥協してはなりません。『救われて成長するためには、良い行いではなく、ただ恵みによるのです。』しかし、キリストの恵みを受ける人は、恵みを与えるのです。。。ある教会は、慈善を強調し、教義をないがしろにします。彼らはこう言います。「真理や教義は、分からないし、堅い。ただ、慈善活動しましょう。」他の教会は、教義を強調し、「これが真理」と断言し、伝道し、メッセージもしっかりします。慈善をないがしろにします。でも、真実な愛を根拠にすると、犠牲的な慈善活動できます。十字架の慈愛の神の栄光を表し、伝道にもなります。

誤解しないで下さい。貧しい人を顧みる」ことによって、キリスト者に成るのではありません。ただ恵みです。逆に自分の「心の貧しさ」を知って、キリスト者になるのです。1741年、アメリカ、コネチカット州の無学のネーセン・コールは、伝道師ジョージ・ウィットフィルドのメッセージを聞きに行きました。これが彼の証しです。「彼のメッセージを聞いて、(罪が指摘され)心に傷が出来た。また、神の祝福によって私の古い土台は、壊された。そして、自分の行いが自分を救えないことが分かった。」人は、なんだかの道徳を神に差し上げたいのです。でも、神に来る時、何も手に持って来れないのです。何も。それは、私たちにとって無理なことです。「心の貧しい者」ですから。手ぶらで神の前に来るのです。手に何かがあれば、ただ私たちの罪です。詩人はこう書きました。「私の手には何も(キリストに)持って行きません。ただあなたの十字架にすがります。」聖書の理論は、次です。主イエスが十字架上で全てを捧げられたのです。キリストが全てを捧げたことを理解すると、こう言いはじめます。「私は、キリストの犠牲によって生きている。生かされている。それで、私は、『貧しい人を顧みる』、その方々に仕える、必要を与えるのです。」彼らがあなたによって生きるのです。

キリストの十字架の愛を仰ぐと、貧しい人を全く違う目で見て、「貧しい人を顧みる」ことが出来るようになるのです。キリストの十字架の愛は、ただの気持ちではないのです。犠牲的な行為です。福音を語る教会は、「貧しい人を顧みる」のです。。。西暦後360年頃、クリスチャンでなかったローマの皇帝ジュリアンは、クリスチャンについてこう言ったそうです。「クリスチャンは、見知らぬ人に対する慈善を通して彼らの(愛の)目的を最も促進させているのが見えるでしょう。クリスチャンは、自分の貧しい人だけではなく、私たちのも支えるのは、私たちにとって恥であります。私たちは、自分の者も顧みないのです。」当時、全ての町に教会のリーダーがいました。そして、クリスチャンが皆のケアをしていました。ですから、リーダーは、町の全てのことに関して語られるような尊敬を受けていたのです。ノンクリスチャンにとっても、地元の政治家よりも、教会がリーダーとして認められていました。なぜでしょうか?聖書を語っただけではなく、慈善をも行っていたからです。

慈善も大事です。恵まれた者は、恵みを与えるのです。安曇野ファミリーチャペルで、神田英輔先生を呼んで「世界食料デー」が行われました。不思議に、美味しいパンを食べたりするのです。「世界が飢えているのに、どうしてパンを食べるのでしょうか?」と疑問に思いました。でも、けして罪悪感やプレッシャーによって、寄付したり、善を行ったりするのではなく、恵みによってするのです。私たちは、パンによって、恵まれているだけではなく、キリストの愛によって、恵まれています。ですから、与えるのです。

1835年12月17日、イギリス・ブリストルで、孤児院で有名であったジョージ・ミュラーは、このような話しをしました。ある貧しい女性の£100の寄付を断ったのです。ミュラーは、その女性が貧しすぎたと思ったからです。彼女の体は、弱くて、一週間の給与は、たったの$1.00でした。でも、大胆な信仰を持って彼女は、こう言いました。「しかし、主イエスは、血潮の最後の一滴までを私に与えました。ならば、私は、この£100を主に捧げられないでしょうか?」この十字架の恵みが「貧しい人を顧みる」根拠と原動力です。

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