Sunday, April 1, 2018

「キリストが復活されなかったのなら」


 1コリント15:12−20を読んで下さい。

私は、根本的に疑い深い人です。信州人も、理屈っぽいそうですね。冬、コタツを囲んで、野沢菜食って、議論するのが好きだったそうです。『神はいない。もちろん、奇跡や、(12節後半)「死者の復活はない」』と言う人は、山ほど(アルプスほど)いるでしょう。。。コリントの教会に『死者の復活はない』と言っている人もいたらしいです。当時のギリシャの哲学は、仏教と似ている点があって「体は、悪い。体から解き放たれなければならない」と教えていました。ですから『体の回復を意味する復活は、ありえない』と言う考えでした。科学万能の世界の現在でも「見えるものしかない!奇跡なんかない!キリストの復活はありえない!神話でしょう!」と断言してしまうのです。。。聖書は、20節「しかしキリストは。。。死者の中からよみがえられた」事実を主張しています。なぜ、そこまで言えるのでしょうか?

1.3−4、キリストの復活は、歴史的な事実。青森県三戸(さんのべ)郡新郷村に『キリストの墓』がある、とされています。そこに、十字架が立ててあって、「キリストがそこで葬られていた」と言っています。土地の持ち主が「本当にキリストの墓なんですよ!」と主張するのです。事実、昔、その地方には、クリスチャンであった渡来人の墓が7つあったようです。後、村お越しのために『キリストの墓がある』と宣伝したようです。キリストのお墓のワインやお菓子があるようです。でも、大きな問題があります。歴史的な事実とは、全く違うのです。

私たちにとって、歴史的出来事と言う福音が聖書のエッセンスです。3−4「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと。」。。今から2000年ほど前、ローマ帝国に仕えたヨセフスと言うユダヤ人歴史家いました。彼の書いた「古代史」でイエス・キリストとその復活について記しています。
「そのころイエスというものが現れた。彼は、我々の指導者達の非難を受け、ピラトウスが彼を死刑にした。彼は、三日目によみがえって人々に現れたそして今でも、彼にちなんで名ずけられた『クリスティアノス』(クリスチャン)の一族は消滅しない。」ハバード大学法律学部のサイモン・グリーンリーフ博士は、このような結論に達しました。「法廷で使う証拠の規則に基づいて復活を見ると、他の歴史的出来事よりも、キリストの復活(のほう)が証拠はより多くある。」20節、「しかしキリストは、… 死者の中からよみがえられた」のです。

2.5−11、キリストの復活の証人は、多くいた。5−8「また、ケパ(ペテロ)に現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは500人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私(パウロ)にも、現れてくださいました。」キリストの復活からこの手紙が書かれた頃までは、たったの17年ほどだけでした。キリストの復活について疑問があれば、生きていた500人以上の復活の証人に聞くことがまだ出来たのです。

*「証人」(ギリシャ語:Martyria)という言葉は、殉教する、という言葉にもなって行きました。英語では”martyr”と言います。その人の死がその人の信仰を証していたからです。初代教会のほとんどの使徒やリーダーは、信仰のために処刑されました。嘘と知って、命を捧げるでしょうか?ブレーズ・パスカルは、こう書きました。「私は、首の切られる証人(の証言)を信じます。」彼らは、それを嘘だと思ってそこまで犠牲を払ったとは思えないのです。20節、「しかしキリストは、… 死者の中からよみがえられた」のです。

3.12−19、キリストの復活がなければ、全ては虚しい。今日の箇所のポイントです。伝道者の書1:2にこうあります。「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。」「究極的には、全ては虚しい。生ける神がいなければ。」それと似て、この箇所では『キリストの復活無しでは、全ては空しい』とパウロは、理論的に言っているのです。学者は、これを「演繹(エンエキ)的理論」と言います。「一つの事柄から他の事柄へ押し広める」理論です。例えば「人は必ず死ぬ」という大前提があって、「ダビデは人である」という小前提から「ダビデは必ず死ぬ」という結論を導き出すのです。

13−19の数節の間に「もし」、「かりに」、「のなら」、「としたら」などの言葉が繰り返されています。パウロは、仮設を立てているのです。「復活がなければ、キリストが復活しない。ですから、全ては、虚しい」。14節、先ず、伝道者パウロの自身の宣教が「実質のないもの」で、虚しいものと成る、と言っています。キリスト者のメッセージの大事なポイントの一つは、復活ですから、キリストの復活がなければ、15節前半、伝道者は、詐欺師です。「神について偽証をした者」です。いや、嘘ですから、人に対してだけではなく、15節最後「神に逆らう証言」です。そして、14節後半、パウロのメッセージを信じた「あなたがたの信仰も実質のないものになるのです」と言っています。17節前半「虚しい」とあります。他の結果、17節後半「あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいて」、更に、18節「滅んでしま」うのです。19節「すべての人の中で一番哀れな者です。」なぜなら、キリスト教の真実さは、歴史の事実復活にかかっているからです。復活がなければ、全ては空しいです。「自分の罪の中にい」るのです。

逆に、キリストが復活したから、素晴しい希望と意義があるのです。キリストの復活は、罪が全て支払われた証拠でもあるのです。。。何かを買う時、領収書をもらいます。「ちゃんと払ったか?」を聞かれる時の証明です。「領収書を見て下さい。全部支払いました。」イエス様の復活は、領収書のようなものです。罪が全て支払われ、償われた証拠なのです。17節後半、もう「自分の罪の中に」いないのです。復活で分かるのです。。。これが十字架の意味です。誰かがあなたの罪を償わなければなりません。キリストが十字架上であなたの罪を償ったのです。弟子たちは、キリストが復活した後、十字架の意味をやっーと良く分かったのです。復活したから分かったのです。あなたも、復活を信じると、十字架の本当の意義を知ることになるのです。

実話ですが、5人が登山して、ロープで繋がっていました。突然、最後の下の人が足を滑らせて、落ちました。もう一人が引っ張られ、落ちました。次も、次も。「もうだめだ!」と思いました。でも、一番上の人は、ちゃんと見ていて、何が送るかを知っていました。超人的な力を持っていた彼は、ピッケを力強く山に食い込ませ、一生懸命ピッケを掴みました。彼は、下へと引っ張られました。が、動揺せず、続けてロープを握っていました。ロップが彼の体に絡(から)みはじめ、切りはじめ、血が流れはじめました。骨まで折れました。重くて、痛みは酷かったです。でも、離しませんでした。彼は、信じられないような力で、自分を含めて皆を引き上げはじめました。2番目の方がやっと足場を探しました。次の人も、また次の人も。不思議に、皆が救われたのです。。。アダムを始め、罪のゆえに、失われました。一人しか残っていませんでした。主イエス・キリストです。彼は、切られ、血を流し、死なれました。が、神の信じられないような力で復活しました。20節「しかしキリストは、… 死者の中からよみがえられた」のです。恵みと信仰によって繋がれている私たちが救われるためにです。復活がなければ、救いはないし、希望や意義はないのです。罪のままです。14節後半「今もなお。。。罪の中にい」るのです。足場が欲しければ、復活した方と繋がらなければなりません。。。信仰によって恩方にすがって、繋がるのです。

* 58節、キリストの復活は、「主のわざ」を意味する。「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって(復活のゆえに)むだ(空しい、実質のないもの)でないことを知っているのですから。」キリスト御自身の2000年前のの復活は、ここにいる私たちの将来の復活を意味しています。天国に行くだけではなく、神は、将来未来、この地球に新しい天と地を創ります。全ての復活と回復です。そして、私たちの今の「主のわざ」は、後の新しい天と地に繋がっているのです。イギリスの聖書学者N.T.ライト博士は、こう言っています。今のキリスト者の忠実な行動全ては「神の新しい世界までずっと残る。実、(その技は)より拡大される。」現在していること〜家事、子育て、セールス、会計、学校、勉強、慈善、伝道、メッセージ、讚美、隣人愛〜は神の未来へと続くのです。58節後半「労苦がむだでない」のです。。。最近、私たちの家族がフィリピンの羽田野ヒロコさんたちの働きを見ました。働きながらも、イエス・キリストを伝える姿、貧しい人々に仕える姿を見ました。心身ともに変えられた人々に出会いました。台風で全てを失って、私たち(豊かな命キリスト教会)が与えた服によって助けられた家族に会いました。私たちが教会の回りに散歩していた時に、ヒロコさんたちが助けた貧しい人々に会いました。彼らの「労苦がむだでない」のです。永遠へと繋がって行くのです。主の御心ならば、私たちも、松本にいる貧しい人々にも手を差し伸べたいです。毎月の第3週、大手町の公民館での「きずな昼食会」で貧しい人々に仕えたいです。一緒食事を作り、一緒に食べたいです。その「労苦(も)むだでない」のです。家で、学校で、職場で、近所で、教会での伝道「労苦(は)むだでない」のです。神への愛と隣人への愛は神の未来へと続くのです。イースターは、ただのキリストの霊的復活であれば、それは、ただ私個人のためだけにあるのです。しかし、キリストは、体をもって確かに復活したのなら、福音は、全世界のための良き訪れ、とあらゆる面での祝福です。私たちは、福音に感動するだけではないのです。復活は本当ですから、不正、不真実、悪などのある夜中に、神は「もうそれを許さない。全てを正す」と言っているのです。

ある二人は、別々の小さなヘアに入れられ、なんだかの小道具を作らせはじめました。でも、報酬は、違っていたのです。1人は1年間200万円で、もう一人は、1年間2億円でした。年間200万円の人は、数ケ月たったら、段々嫌に成り、止めました。が、年間2億円の人は、ルンルンしながら、口笛ふきながら作りました。なぜでしょうか?後に素晴らしいものが待っていたのです。。。キリストは、初穂として復活しました。終わりの日に私たちも、復活し、考えられないような祝福が待っているのです。58節「ですから、いつも主のわざに励みなさい。主にあってむだでないことを知っているのですから。」その真実な技が新天新地と永遠へと続くのです。真実忠実に務めましょう。

* 復活されたキリストは、あなたと一緒にいる。20世紀最大の詩人の一人イギリスのW.H.アウデンは、ばりばりの無心論者でした。しかし、神に立ち帰りました。彼は、イエス・キリストについてこう言っています。「私は、新約聖書を読みます。気がつくことは、人は、こんな人物を作り上げられない。彼は、リアル(real)。彼は、本当にいて、なぜなら復活したのだから。」あなたが高慢になる時、一緒にいる本もののイエス様があなたの罪を指摘して下さいます。あなたが自分を憎む時、共にいる本もののイエス様があなたを大事に愛して下さいます。復活した共にいる本当にいるイエス様があなたをこらしめ、慰めて下さいます。。。主の臨在を意識するのです。今ここにいて下さるのです。家で、学校で、会社で、歩きながら、買い物しながら、遊びながら、一緒にいて下さるのです。聖書を読み、語り合う時、主の存在臨在を意識するのです。

「キリストが復活されなかったのなら」全ては、虚しいです。希望や意義がないです。イエスは、救い主ではなく、単なる立派の教師で、他の宗教、哲学、道徳と一緒です。しかし、今日説明したように、20節「しかしキリストは、死者の中からよみがえられた」のです。復活したから、キリストは、真の救い主で、本当に私たちの罪を支払いました。素晴しい意義と希望があるのです。この恩方によって、全てを(自分を、生涯を、隣人を、歴史を、世界を)見る目が変わるのです。

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