Sunday, May 27, 2012

「神はいない」


「神はいない。荒涼とした、沈黙の虚無。冷たい永遠の欠落。狂気の偶然。この広大な宇宙の死体置き場にあって、私たちひとりひとりは何と孤独なのだろう!」ジャン・ポール・サルトル

愚か者は心の中で、
「神はいない」と言っている。
彼らは腐っており、
忌まわしい事を行っている。
善を行う者はいない。
主は天から人の子らを見おろして、
神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。
彼らはみな、離れて行き、
だれもかれも腐り果てている。
善を行う者はいない。ひとりもいない。
不法を行う者らはだれも知らないのか。
彼らはパンを食らうように、
わたしの民を食らい、
主を呼び求めようとはしない。
見よ。彼らが、いかに恐れたかを。
神は、正しい者の一族とともにおられるからだ。
おまえたちは、悩む者のはかりごとをはずかしめようとするだろう。
しかし、主が彼の避け所である。
ああ、イスラエルの救いがシオンから来るように。
主が御民の繁栄を元どおりにされるとき、ヤコブは楽しめ。
イスラエルは喜べ。
聖書・詩編14

この聖書の言葉は、痛いですね。都合良い言葉ではないですね。聖書は、人間について「きれいごと」を言わないのです。真実です。彼らは、なぜ「腐っている」のでしょうか?「忌まわしい事を行っている」のです。行いが神の御心から遠いのです。後でこう書いてあります。「彼らはパンを食らうように、わたしの民を食らい」と書いてあります。また、彼らは「悩む者のはかりごとをはずかしめようとするだろう」とまたあります。「神がいない」と思うから、神に服従せず、チック機能が働かず、残酷で野蛮です。共産圏の旧ソビエト、中国、や現在の北朝鮮にこの野蛮さが見えます。この無神論の国で89,000,000が殺害されたと言われています。余りにも余りにも多くの人が殺害されています。


しかし、私は、自分の心にもこの可能性を感じます。「神様を知っている、信じている」と言いながら、自分の心、言葉と行動が伴っていないときが多すぎます。信じていると言いながら、心に心配が多いです。言葉で人を傷つけます。自己中心な行動は多すぎます。頭で知っている知識が心に深く入る必要があるのです。「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」聖書・1ヨハネ 4:20  マルテン・ルターはこう書きました。「私たちの主イエス・キリストが『悔い改めよ』と言われた時、悔い改めが信者の生涯の全てである、と言われました。」全ての人(Nonクリスチャンも、クリスチャンも)を悔い改めに招いているのです。


神と人を大事にしない私たちに希望があるのでしょうか?ジャン・ポールが言うようには、私たちは「孤独」ではないです。造り主がいるだけではなく、存在する神は「希望」を下さるのです。「主が彼の避け所である」と書いてあり、「救いが来る」とも書いてあります。確かに、主イエス・キリストが希望を与える救い主です。私たちが永遠に裁かれないように、十字架上で代わりとなって裁かれました。なぜなら、私たちの不信仰の罪、人を愛さない罪を負っていたからです。そして、私たちは、信じる信仰によって、救われ、神ご自身を体験するのです。そして、人を愛する者に変えられます。

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